2018年新作映画ベスト10
2018年も12月34日、暮れである。
今年の感動今年のうちにと言うことで、2018年に映画館で観た新作映画49本の個人的ランキングを記していこう。
因みに旧作再上映含めると55本。1週に1本以上観てる。
建値で観てるとしたら9万9000円。安いな!!!!!!!!
10位
GODZILLA 決戦起動増殖都市
決戦機動増殖都市、アルティメット最高だった。大好き。
— 光光太郎 (@bright_tarou) May 18, 2018
アニゴジ、やっぱりゴジラという存在の再解釈として抜群に面白い。ドラマも怪獣との戦い関連に絞ってるのはタイトだし、特に2の葛藤は良かった。「怪獣やゴジラはこうあるべき!」を廃したことによる新機軸は間違ってない。
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 9, 2018
圧倒的かつ致命的に欠けているのは、ビジュアルイメージとエンタメだ……。
昨年から公開されてきたアニゴジシリーズもこの間の3作目で完結。その2作目にしてメカゴジラ登場の決戦機動増殖都市を10位においた。シリーズとして、なんとしても今年のベストに入れたかったのだ。
まず、昭和から平成まで刷新され続けたメカゴジラを「ゴジラを倒すために模倣し進化し続ける存在」と解釈した結果のメカゴジラシティが、かなり好き。極限状況のスリルと同居した「怪獣を倒すには怪獣になるしかないのか?」禅問答も大好きだ。
アニゴジはまぁ、クソつまらない部分もあるけど、ゴジラとは何か?怪獣と戦うとはどういうことなのか?の解釈がどれもこれも素晴らしいので、評判だけで観ていない人には是非一見して欲しい。
プロジェクトメカゴジラ改めて読んでるけど、アニゴジ2のゴジラより10000万倍位強いと思うわ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) May 19, 2018
まぁ前日談の小説2冊の方が超面白いけどね!!!!!!!!!!
9位
「マンハント」を観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) February 14, 2018
70年代東映のフィーリングに全てが支配されてしまったファンタジージャポンオオサカを舞台に、カッコつけないと生きていけない人々が織り成すアクションドラマが堪らなく楽しい。クソダサい演出、リップシンク完全無視、5万回位あるジャンプカットで頭は崩壊!!2018ベスト!!
「マンハント」
— 光光太郎 (@bright_tarou) February 14, 2018
間違いなく、これまでにない映像体験を楽しめる。映画は魔法という言葉があるけど今作は正に魔空空間へと引きづりこんでくれる。単発で観ると本当にダサい演出を連発&超絶しずる感のダブルパンチでクソカッコいい映像へと変える。しずる感への拘りは狂気の域だ。
「マンハント」
— 光光太郎 (@bright_tarou) February 14, 2018
滴る汗、舞い散る羽毛、しなる枝、ひらめく桜、ぶっかかる水、マズルフラッシュ、翻る肉体、福山雅治の毛穴……………劇中のありとあらゆるものに過剰なしずる感がもたらされている。映像学校で教材にすべき!!!
ジョン・ウー監督作にして今年1番の怪作パワー作、「君よ憤怒の河を渡れ」のリメイクが9位。リメイクって言ってるけど、全然違う映画だぜ!!!!!!!!
映画という魔窟を体験できる唯一無二の作品だ。まともな場面は一瞬たりともなく、こちらの理解の3光年先を進む映像にはめまいが起きる。「ヒッチコックのサスペンスを意識したんだ」 とは監督の言葉だが、正気か!!???
8位
ヘレディタリー/継承
ヘレディタリー、観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 13, 2018
怖すぎて、エンドクレジット入って数秒で劇場を出てしまった。
ヘレディタリー、無茶苦茶怖いのは勿論、凝りに凝った映像がいっぱいあって楽しい…けど怖い。
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 13, 2018
年末最恐ホラーは8位。
後にも先にも、怖すぎてエンドクレジット中に退ッコ出したのはこれだけ。怖さだけでなく、主軸ストーリーがッコ分からなくても「感情移入させられてしまう」程の巧みで丁寧な映像テクニックッコも見所だ。監督の過去作(YouTubeでも観れる)を観ても明確だが、ヒッチコック映画を強く意識した作りになっていて、映像技法、空間の切り取り方で興味を引っ張る正統派な映画でもあるのだ。
7位
「パディントン2」を観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) January 19, 2018
前作でもギリギリだった「ちょっとおかしな世界」が閾値越えてたり洒落た映像が目減りしてたりは、する。
でも、もう一度、家無き子が家を見つけるお話を語り直した価値は十二分にある。終盤の怒濤のハッピーエンドには涙が止まらなかった。傑作!
「パディントン2」
— 光光太郎 (@bright_tarou) January 19, 2018
吹替で観たけどもやっぱり松坂桃李は上手い。ベン・ウィショーとは似てないけど、合ってる。ヒュー・グラントに声をあてた斎藤工も、ぶっちゃけ声が若すぎるしどう聞いても斎藤工なんだけど、上手い。なにより滅茶苦茶楽しんで演じてるのがよく分かる。
「パディントン2」俺の記憶違いでなければ、今回初めてパディントンが○○○であることが明かされたと思ったんだけど、もしかして前作から言われてた…? https://t.co/qfmuuGVxQR
— 光光太郎 (@bright_tarou) January 22, 2018
スパイしないイギリス紳士が帰ってきた!可愛いクマちゃん映画の皮を被った人生賛歌が7位。
出自がどうであっても、出会いと心で人は紳士になれる。受け継がれていく親切、何気ない優しさは確実に世界を変える。カラフルでオシャレで楽しすぎる映像も健在。松坂桃李と斎藤工の吹替も良かった!今作のサリー・ホーキンスはフ〇ックって言わないよ!
6位
「ペンギン・ハイウェイ」観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) August 22, 2018
小難しいSFやおっぱい連呼等のセンセーショナルさよりも何よりも、誰もが楽しめる「分かりやすい物語」だった。利己的から利他的に、惚れた女の為に、自分自身で意味付ける為に……アオヤマ君という一人の子供の成長譚としてカタルシスに満ちた娯楽作だった。最高!
アトロクでもプッシュされていたアニメ映画が6位。
とにかく素直に面白がれるエンタメってのが凄い。
夏休み映画だったからか、勉強することの意義を描いていたね。未知を解き明かすということは、それは既知になり、世界に溶け込むってこと。アオヤマ君は惚れた人の為に、知力と機転で世界へ立ち向かう決心をする。激熱な物語じゃないですか。好きにならざるを得ない。
「解き明かして成長する」はアオヤマ君の恋物語にもリンクする。冒頭、アオヤマ君にとって知識を得ることは利己的行動、気持ちよくなるため、自慰行為みたいなもんだけど最後は利他的行動、明確な目的と対象を持った行動、セックスみたいなものになったんじゃないだろうか。
5位
恋は雨あがりのように
「恋は雨上がりのように」観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) June 2, 2018
アイドル映画でヒューマンドラマで漫画実写作品な、アルティメット邦画爆誕。小松菜奈が映るだけで笑みが綻び涙を誘う。全部台詞で言っているようでも、肝心なところはさりげなく。おっさんとJKの恋愛ではなく、その二人だからこそ出来る成長をエンタメに。最高。
「恋は雨上がりのように」
— 光光太郎 (@bright_tarou) June 2, 2018
アキレス腱切るっていう、大事だけど決定的な傷ではないものを全てのドラマに絡めてるので、話がすんごい分かりやすかったのも良かったな。
2018年映画界のスーパースター、小松菜奈主演の青春映画が5位。
JKとおっさんの恋物語である以上に、喪失した、してしまったと思った人が出会いを通して成長し、もう一度立ち上がる物語なのだ。言葉ではなく間と台詞で表現された心情に涙腺は決壊するだろう。エピソードを並べ替えて映画1本で完結するようにした手腕もお見事。今年を代表する邦画だと胸を張って言える1作だ!
4位
ボヘミアンラプソディ
「ボヘミアンラプソディ」IMAX最前列で観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 17, 2018
史実を下敷きにした話なのでどうしてもダイジェスト感は否めないけど「人が心の底から感動してる瞬間」をいくつも見せてくれるので大満足。音楽は人を救うし、聴く人もまた音楽家を救ってる。
あと、色んな映像効果が使われまくってるので楽しい。
「ボヘミアン・ラプソディ」
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 18, 2018
利己的行動の末に破滅した者が、自らの行動が他者へ与えた影響に気付き、利他的行動を目指すという、アルティメット王道なストーリーなのもいい。音楽家とファンの関係性ともドンピシャだしね。
QUEENのフィクション伝記が4位。
病院でのエーオ言い合いに全てが込められている。自分が与えてきた希望に気付き、自分が救われる。それが最上の形で結実するライブシーン、特に観客の反応に涙腺は決壊。
Tonight, I'm gonna have myself a real good time
I feel alive and the world I'll turn it inside out, yeah
And floating around in ecstasy
So don't stop me now don't stop me
'Cause I'm having a good time, having a good time
3位
グレイテストショーマン
「グレイテスト・ショーマン」IMAXで観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) February 21, 2018
フィクションの尊さ力強さを超絶フィクションであるミュージカル映画で示す意義に涙腺崩壊。ミュージカルシーン、表現自体に意味があるので物語はノンストップ。イマジネーションと誇張と体技と個性があれば誰でもヒーローになれる!!存在を知らしめろ!!
冒頭の「ショー」「見立て」「イマジネーション」の連続炸裂からして涙が洪水だった。身近なものでも工夫一発視点変えで夢と生きる活力を生み出す魔法になる。フィクションの根源的な素晴らしさをスムーズにドラマも絡めて叩きつける手腕にただただ脱帽。すげぇ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) February 21, 2018
出会いから結婚出産までを1曲の間でこなす超テンポ映画が3位。
史実を調べてみると嘘っぱちばかりなのは分かるんだが、とにもかくにも音楽とパフォーマンスの力でやられてしまう。それを抜いても、冒頭の「想像力万歳」展開が好きすぎる。あと、これきっかけにして仲良くなれた仕事仲間とかもいて、思い出深い作品なのだ。
2位
「若おかみは小学生!」観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 10, 2018
1L位泣いた。旅館仕事を通しての優しい優しいセラピー。
「若おかみは小学生!」
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 10, 2018
子供が親と離れる話、子供が頑張る話はねぇ、弱いんだ。ぼろぼろ泣いちゃう。
「若おかみは小学生!」
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 10, 2018
両親を無くしたおっこは幽霊に会うけど、お父さんお母さんも幽霊になってどこかにいるはず!とはならない。彼女の中ではまだ死んでないし、今も側にいると思い込んでるから。
(声にならない嗚咽、流れ出る涙、垂れ落ちる鼻水)
「若おかみは小学生!」
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 10, 2018
辛い過去に囚われるおっこは両親が愛し信じたものに触れ、継承し、体現することで克服する。脚本が見事過ぎるな。
(止まらない思い出し泣き、すする鼻)
アトロクのシネマランキング聴いて、若おかみは小学生!のラストを思い返しみんり。これまでおっこを叱咤激励してきた人達でさえ「諦めていい」と言うのに、「それでも」と踏ん張るおっこ。それでも!
— 光光太郎 (@bright_tarou) January 1, 2019
ウルティメイト大傑作アニメが2位。
まぁこれはね、スパイダーマンなんですよ。
だって、私は、スパイダーマン、若おかみだから…。Blu-ray買います。
1位
映画 HUGっと!プリキュア・ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ
プリキュア知ってる人は評価が5億倍になるけど、多分全然知らない人が観ても引き込まれ感動するストーリーだったと思う。倒れて立ち上がる話、人に寄り添う話だから。
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 2, 2018
子供達への最高のエールに涙が止まらない。
プリキュアオールスターズ、最近考えている「何が正しいかではなく誰が傷ついたかが重要」にバシッとはまる内容だったな。
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 2, 2018
オールスターズメモリーズ、昔苛められてて辛い記憶ばかりだったはなだからこそ、の物語だったな。
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 2, 2018
オールスターズメモリーズ、子供達の為のロッキーでありクリード。
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 2, 2018
プリキュアオールスターズメモリーズ、どんな人のどんな人生にも優しく語りかけ力強く手を握ってくれる映画なんですよ。この尊さは今年ナンバーワンです。
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 26, 2018
プリキュア映画が1位。贔屓目なしに、1位。
オールタイムベストに入った人生讃歌の大傑作。これまでがあるから踏ん張れる、今立ち上がったから変われる、昔が最悪でもこれから最高を積み上げていける。どんな時代のどんな人にも優しく寄り添い、激しい啖呵をきる物語に涙が止まらない。
改めてベスト10をば。
①プリキュアオールスターズメモリーズ
②若おかみは小学生!
③グレイテストショーマン
④ボヘミアンラプソディ
⑤恋は雨あがりのように
⑥ペンギン・ハイウェイ
⑦パディントン2
⑧ヘレディタリー
⑨マンハント
⑩決戦機動増殖都市
因みに殿堂入りは
「アベンジャーズ/インフィニティウォー」
「ちはやふる -結び-」
です。
Tonight, I'm gonna have myself…
ユニバーサルホラーの映像特典が歴史面特撮面で面白い
会社人生活2年目終盤、段々仕事も忙しくなり時間も無くなってくるもの。趣味に興じる隙間時間も最近は専ら「レッドデッドリデンプション2」や「スマブラ」に侵され、映画を観る時間が激減してしまった。
そんな中、隙間時間の更に隙間をぬって楽しんでいるのが「映像特典を観る」こと。映画のBlu-rayやDVDには貴重なメイキングやインタビュー集が収録されていることが多く、時間も短めで手軽に映画の世界を楽しむのに持って来いな規模感なのだ。
映像特典には、メイキングや撮影風景等で作品自体を深掘りする「点」的なものと、作品をとりまく過去作や時代等を扱った「線」的なものがあるが、私が好きなのは後者だ。社会情勢や製作背景を踏まえてあくまでも外側から分析した特典を観ると、作品理解の大きな助けとなるから。美術館でキュレーションを受けることで美術品が持つ莫大な情報量を知って楽しむ感覚に近い。
特にお気に入りなのが「ユニバーサルホラー映画」達、つまりドラキュラやフランケンシュタインの怪物、狼男達が登場する映画の映像特典だ。怪物、モンスター好きとして粛々とBlu-rayを買い集めていたのだが、ぶっちゃけ本編よりも映像特典ばかり観ている。その面白さ貴重さは次の2点にまとめられるだろう。
・1920年~50年のホラー映画史総括
・抜群の特撮技術
もっと簡潔に言えば
「昔から凄かったのか!すげぇ!」
「全部繋がってるのか!すげぇ!」
なのだ。
これらを楽しむにはどのBlu-rayを買えばいいか?そもそも何が面白いのかについて、順を追って書いていきたいと思う。まぁ「フランケンシュタイン」を買えば大体全部観れるよ!
1920年~50年のホラー映画史総括
おススメ作品:
「フランケンシュタイン」には、その名もズバリの「ユニバーサル・ホラー制作秘話」という映像特典が収録されている。ユニバーサルが創出したホラー映画群が90分に渡って語られる骨太特典で、隙間時間で見るというのと矛盾するが、これが無類に面白い。
サイレント映画の時代から始まり、ドラキュラやフランケンシュタインといった古典モンスターの誕生、モンスター映画の衰退までが、映画史研究家や当時の役者陣などへのインタビューによって紡がれていく。
まず何よりも、色んなホラー映画の映像を観られるのが滅茶苦茶楽しい。つまり映画技法をわんこそば状態で観れるということだ。サイレントのホラー映画達は作られてから約100年経過しているが、100年の中で使われてきた恐怖演出の殆どがこの時期の作品で既に生まれていることがよく分かる。焦らしに焦らして、大きな音と共に怪物がドーン!と出る!(サイレントだから音は劇場での生演奏か何かだろうけど)、画面の隅に異物が現れドンドン近づいてくる、揺れるカーテン、伸びる影、etc…。直接的な残酷描写はないものの、モンタージュによって「瞳を手で抉り出す」を想起させるシーンなんかは今見ても震え上がってしまう。
こういった技術はアメリカ映画史だけで培われてきたわけではない。ドイツ映画「カリガリ博士」や「ノスフェラトゥ」で多用される表現主義(不安定な心情を表現したグチャグチャ美術、伸びる影…)や、その他ヨーロッパ映画の美術等から大きな影響を受けていた。映画は映画に影響を与え、その技術を進歩させているのだ。
また、娯楽は社会情勢が反映されているもの。特典では、何故こういったモンスターが生み出されたのか?何故このような恐怖を描いたのか?等を当時の社会の様子に紐づけて分析されている。第一次世界大戦後は体が欠損した負傷兵をイメージさせる作品があったり、世界恐慌以降は異形のモンスターが流行ったり。ハリウッドで最初に超常現象を扱ったのが「魔人ドラキュラ」と言うのはかなり意外だ。ドラキュラ小説誕生から舞台版、映画版の成功からのモンスター路線等を詳しく知るには、ドラキュラに収録されているメイキングを参考に。また、ギョッとしたのは、身体障害者が、悲劇的ではあるものの悪役として描かれる作品が多いこと。まぁ、これが変化しだしたのは極最近の話か…。
映画技法の積み重ね、社会情勢に合わせてのホラー映画の変遷等、映画を点ではなく大きな流れの縦軸と同年代の横軸とで「歴史」「現象」として語りなおすのが、この映像特典の魅力だ。懇切丁寧なキュレーションにより、当時の観客が抱いていたであろう感覚や前提知識を持って作品を観ることが出来る。つまり、映画の見方が変わる。惜しむらくは、映画よりも特典ばかり観てしまうほどの面白さだろう。
抜群の特撮技術
オススメ作品
ホラー映画につきものなのは「特殊メイク」と「映像効果」。まぁ映画っつうより全ての映像作品に必須なことだが、ユニバーサルホラー映画の映像特典には、これら2つの黎明期が詳しく解説されている。特に特殊メイクについては各作品毎に別途の映像特典がつく程の徹底ぶりだ。総括したいのならやはり「フランケンシュタイン」で決まり!
まずは特殊メイクの映像特典についてから。フランケンシュタイン、ミイラ再生、狼男で取り上げられているが、語られているのは大まかに2人の天才、ロン・チェイニーとジャック・ピアースについてだ。
当たり前の話だが、役者は自分の顔をよく見せたいものなので、1900年代初頭はホラー映画であっても極端なメイクは避けられがちだった。これを革新したのが、自分で自分のメイクをし続けたロン・チェイニーだ。「ノートルダムのせむし男」や「オペラ座の怪人」等を見ると、体つき顔つきを完全に変えてしまう正に「特殊メイク」を施している。特典ではこういった「特殊メイクの始まり」を様々な作品を用いて語られているので、是非観てみて欲しい。
そして、今我々が知るフランケンシュタインの怪物やミイラ男、狼男といった造形を作り上げたのがジャック・ピアースだ。彼の功績については「狼男」「ミイラ再生」両方に収録されている特典に詳しく、「長時間メイクによる丁寧な造形」の功罪について語られている。6時間以上かけて綿密なメイクを施すことにより創り上げられたモンスター達のビジュアルの素晴らしさを讃えるのは勿論だが、決して快適とは言えないメイクを受ける役者との軋轢や、質では劣るが短時間で済むメイク法の登場により仕事を追われてしまうなど、彼の影の部分についても知ることが出来る。
続いて映像効果。ホラー映画は、映画が誕生したその時から、怖がらせる驚かせるテクニックとして様々な映像効果が使用されてきた。
はい!やっぱり「フランケンシュタイン」の映像特典で総括できます。ここでは、サイレントの時代からカメラ撮影であることを活かしまくった工夫が連発していたことが分かる。
例えば、重病人の病気が治る様子をワンショット撮影で見せているのだが、これは暗記シートの理屈、つまり赤色は赤フィルターを通すと見えなくなる性質を利用している。白黒だから出来ることで、カラーでやったら「仮面の忍者 赤影」みたいになっていただろう(赤影も特撮のアイデア抜群なので是非)。
映像効果とは少々違うが、ワンショット変身時に演技のみで説得力ある変身をみせる映画が多いことにも驚いた。そっけなく撮られている分、怖かったりする。
モンタージュによってワンショット風変身を作り続けてきたシリーズは「狼男」だ。人間から段々と毛むくじゃらの狼になっていく様を描くには、段階段階のメイクを施して撮影して直してメイクして撮影して…という気の遠くなるような作業が必要だが、狼男シリーズも回を重ねるごとに変身がスムーズに、繋ぎ目が分からなくなっていく。特典で詳しく語られてはいないが「狼男アメリカン」でリック・ベイカーが行った、モンタージュせずに狼男へ変身するシーンは、狼男シリーズが目指し続けた映像効果の1つのゴールと言えるだろう。
そのものずばり映像効果!!が見たいのであれば「透明人間」だ。まずは予告を観てみて欲しい。
公開されたのは1933年。まだ第二次世界大戦も始まっていない頃に、こんなとんでもない特撮映画があったのだ。キングコングもこの年かな?
鏡の前で包帯を取り透明になる「変身」シーンや、透明人間による様々な悪戯をみせる操演など、日本で慣れ親しんだTHE・特撮が炸裂しまくるのが「透明人間」であり、そのメイキングには特撮に関する技術的解説が懇切丁寧になされている。前述の変身シーンでは4枚以上のフィルムを合成して作ったとか…そんなことが可能なのか…。
特殊メイクにしろ映像効果にしろ、今観ても変わらぬ驚きがあるはずだ。それは現在使われている技術に古典が脈々と受け継がれていることであり、現代娯楽が古典無くしてはありえないことを端的に示している。つまり、何事も遡っての勉強が必要だということですな…。
〆
さて、そろそろ〆だ。
映画好きとしても、特撮好きとしても、勿論モンスター好きとしても、ユニバーサルホラー映画の映像特典達はとても面白く、楽しい。何度も何度も観てしまう。古典誕生から現在への影響までが語られる大河ドラマ的な要素が後を引くのだろうか?
とりあえず、興味があるなら1000円そこそこの「フランケンシュタイン」のBlu-rayを買おうぜ!!
第七の封印 ~神の不在?そうかな?~
このビジュアルに一目ぼれしてレンタル鑑賞したのが3年前。
白黒コントラストが効いた映像はカッコよかったし、分かりやすいキャラクター達のロードムービーは楽しい。全体を覆う無常感は堪らない。
しかし、分からなかった。何が言いたいのか全然分からん。
難解な映画だという印象が残った。
そして今年の夏、仙台にもベルイマン生誕100年映画祭がやってきた。
仕事の都合で「第七の封印」を観ることは出来なかったが、「沈黙」と「叫びとささやき」を観た。全く分からなかったし、正直だいぶ寝た。同席していた数多くのシネフィル仙台民に申し訳ない…。
劇場で販売されていた2冊のパンフ、そして町山さんによる解説を聞いた後で、再度「第七の封印」を観てみると、驚くほど分かりやすい!!!!!!そして面白い!!!
何故初見では分からなかったのか?二度目の鑑賞では何故分かりやすかったのか?今回はそこらへんに着目して感想を書いていきたいと思う。
作品情報
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
製作:アラン・エーケルンド
出演者:マックス・フォン・シドー(騎士アントニウス)
:グンナール・ビョルンストランド(従者ヨンス)
:ベント・エケロート(死神)
音楽:エリク・ノルドグレン
撮影:グンナール・フィッシェル
第10回カンヌ国際映画祭審査員特別賞
初見で分からなかった理由
これは「身構えて観すぎた」ことに尽きる。難解な宗教映画、神の不在を問う映画として観てしまったために、映像に映るものへの集中力が欠けていたからだ。
ヨーロッパやキリスト教についての知識云々関係なく、映像に映るものを繋げていけば分かるが、これって言うほど簡単ではない。だからこそ、難解だ難解だと言われるのだと思う。
映像を観るだけで分かりはするのだが、イングマール・ベルイマンという人を知ることでより分かりやすくなるので、そこら辺にも触れてみたい。
イングマール・ベルイマンとは?
町山さんの解説を聞くのが一番早い。
今作に関係することでは「神の不在」に翻弄され続け、それを表現し続けた人だ。
国際的に評価された宣教師である父の、家族への暴力。キリスト教では忌むべき存在とされる性への飽くなき欲求。不条理を突きつける神への不信を持つ一方で性欲に負けたことを悔い神へ懺悔する…こんがらがったコンプレックスと欲望とをコントロール出来ない日々が、50歳まで続いたという。唯一ぶつけられるのが、映画だった。
また、技術面でもテーマ性でも、後世に絶大な影響を与えた大監督でもある。この動画で出てくる「影響を受けた作家一覧」を観ると、その影響力の大きさが分かるだろう。
最もやりたかった企画
「第七の封印」の基は、戯曲として生まれた。ベルイマンは映画化を望んでいたが、題材の難解さ故に会社はOKを出さない。しかし「夏の夜は三たび微笑む」が興行的批評的に大ヒットし巨匠としての地位を得たため、製作に取り掛かった。自由に撮れるようになってから初めて作り出したのが「第七の封印」である。
結果、今作も国際的に評価され、この後製作される作品群も高評価を得続けることになる。前作が言わば職人映画であったのに対し、今作はとことん個人的な思いを詰めて作った作品なので、ベルイマンが本格的に走り出したのは「第七の封印」からだろう。
「第七の封印」は分かりづらいのか?
今作は難解な映画、と評される。次の知識が必要だと思われるからだ。
しかし、これらの知識がなくとも楽しめるように出来ている。
そもそもベルイマンが今作の着想を得たのは、劇中に登場するような教会の壁画…死神が騎士とチェスを指す、死の舞踏…である。絵とは見て分かるものであり、描かれていることからしか情報を読み取ることは出来ない。知識はあくまでも補足であり、絵の外にあるものは本質ではないのだ。
観れば分かる「神の不在」
「第七の封印」も、映像を観るだけで全て分かる様に作られていると、私は思う。
例えばアントニウスが問い続ける「神の不在」についてだが、実は冒頭で「神はいる」と映像で映しているのだ。
まず、目の前に現れて会話もする死神だ。キリスト教で死を執行するのは天使らしいが、天使は神の使いなので間接的に神が存在すると示している。キリスト教云々を抜きしても、死を司るのは神的な存在でしか有り得ないことは分かるだろう。教会において死神は懺悔を聞く側に立っていることからも、彼が神の裏返し、もしくは同一の存在であることが分かる。
次に、旅芸人のヨフが見る聖母マリアとその子供だ。ヨフは唯一、死に至る前に死神を見たり、死の舞踏を見たりする人物なので、ここで見た聖母マリア達は本物だろう。
死神と聖母マリア、そして目撃するアントニウスとヨフによって、滑稽すぎる程に、神は存在すると示される。何故見えるのか?彼らは何なのかという「理由」は必要なく、ただいるという「結果」しかない。
では本作で問われる「神の不在」とは何なのか?これは「都合のいい神様はいない」ことだと思われる。神的存在を見る人々と、そのシチュエーションから考えてみよう。
死神は会った人物に死を届けるので、人間にとってはいい迷惑どころか悲劇だ。
旅芸人の団長は「殺さないでくれ」と死神に懇願するが、そんなことは意に介さない死神によって問答無用で殺されてしまう。ここでのコミカルな会話やアホすぎる殺害方法が、尚更死神の不条理さを際立たせている。
アントニウスは何度も何度も死神と話をするが、まともに取り合っては貰えない。はぐらかされ、チェスでじわじわと追い詰められ、一筋の希望すら黒く塗りつぶそうとする。最後は、別れたヨフ夫婦を除く旅の仲間全員が死神を目撃し、一言も発しない死神によって殺される。
死神に人間の都合なんてものは存在せず、助けてという声を無視して人の命を奪うだけ。チェスも興味だけでやっているのだろう。気まぐれだ。
聖母マリアはもっとたちが悪い。人間達が神の名の下に無益な戦争を繰り返し、黒死病が蔓延する最中に、自分の子供がかわいくて仕方ない。ここに至っては対話もなし。救いを求める人の声を聞きもしない。
この様に、神達は人間のことなどお構い無しに自分の都合だけで動いている。そこに何かを求めること自体が無意味なのだ。アントニウスらキリスト教信者にとっての「神の不在」。
「第七の封印」パロで一番有名?
若き日のキアヌ・リーブスが死神と生き返りをかけて潜水艦ゲームで戦う映画。
神の実在
対して、神の実在を信じ報われる人物もいる。
まずはやはりヨフだ。息子にミーカエルと名付ける位なので、彼もキリスト教徒だろう。しかしアントニウスや「むち打ち集団」の様に神へ救いを求めたりはしない。妻と子を愛する、それ以上は必要ないのだ。なので神や死神を目撃しても「それはそれ」として自分らしくいる。彼にとって神は「いる」だけ。だからこそヨフにだけ見えるのかもしれない。
二人目は喋れない少女。死神を前にして「やっと終わるのね」と初めて口を開き、涙する。彼女にとって死神は、週末の世から自分を救う神の様に見えたのかも。終わりを切望する彼女に「神は実在」したのだ。
結局のところ、超常的な存在が起こす不条理をどう捉えるか?なのか。だとすれば、神の奇跡を求める人々にとって、神はいつまでも不在の存在なのかもしれない。すぐそこに神=超常はいるのに。
滑稽だ。「第七の封印」はコメディとして観ることも出来る。神はどこにいるのか!!応えてくれ!!いま〜〜〜す(笑)みたいな。
摩訶不思議なロードムービー
小難しい話が続いたが、前述した通り今作はロードムービーである。
十字軍遠征から居城へ帰る途中のアントニウスと従者ヨンスは、帰途の中でヨーロッパの現状を目撃し、旅の仲間を増やしていく。
アントニウスは死神とのチェスや神への質問にお熱なので、物語を動かしていくのは専らヨンスの役目。なによりもヨンスのキャラクターが面白い。
アントニウスとは主従というより腐れ縁の相棒であり、皮肉や軽口を飛ばしまくる。旅先で出会う人とも気さくに?話すし、困っている人がいれば我先に助ける。実際、旅仲間の殆どはヨンスに助けられている。アントニウスは何にもしない(笑)。ただ、アントニウス達を焚き付けて遠征に行かせた神学者には非情に振る舞う。
旅芸人一家は終末間漂う世界の中でも仲が良く、優しさもある。劇中で朗らかな仲なのはヨフ達だけだ。ただ、死神を見てすぐに家族を連れて逃げるしたたかさもある。
彼らと過ごす丘での一時は、劇中で最もポジティブな時間だ。
ここで死神とチェスを指す際は空や草原の白色が画面を覆っており、アントニウスが希望を持っていることが分かる。初戦や森中での戦い、そして城内で相対するシーンとを見比べると一目瞭然だ。ここでも「見れば分かる」が炸裂している。
草原での戦い。ここでは死神が心理戦を仕掛け、黒が画面を支配する。草から顔を出しているわけではない。
切り返すとこうなる。アントニウス側も黒で支配されつつある。「見れば分かる」だ。
旅芸人の座長を誘惑する女と、彼女に逃げられた鍛冶屋の夫。鍛冶屋と座長が繰り広げる罵り合いバトルは「サニー 永遠の仲間達」に影響を与えた…のか?ここでもヨンスの皮肉が冴え渡る。何故女をつくりたもうた?
悲惨なヨーロッパの現状も、旅の中で明らかになっていく。
道には骸が横たわり、教会は生ではなく死を説き、終末論者達の邪教集団が町町を練り歩き(異様にいい声)、魔女とされる女は火炙りにされる。弱った人々は更なる弱者を苛める。悲劇が弱さを産み、弱さが弱者を作り、弱者が悲劇を生むという連鎖。コミカルなキャラクター達とは対照的に、正に地獄。いや、地獄だからこそコミカルに振る舞うのだ。ヨンスは魔女の火炙りを見て、劇中最初で最後の弱音を漏らす。
最後、アントニウス一行は居城へたどり着くが、そこは黒が支配する世界。生のロードムービーは終わりを迎え、死との舞踏が始まる……。
終末世界を旅する映画として、なんとキレイな終わりだろうか。世界は終わらないと思う者だけが、死から逃れた。
〆
さて、そろそろ結びだ。
今作は「神の不在」という難解なテーマを「見れば分かる」お話にした、カッコいい映画なのだ。見たものを、ただそこにあるものとして捉えるのは中々難しいが、そうすれば必ず分かる…はず?ハハハ(笑)。
映画:聲の形 ~人間賛歌~
※この記事は前ブログの記事です。この間Eテレで「聲の形」が放送されたらしいので、記念に引っ越してみました。一部加筆修正を加えていますが、できる限り当時の、大学生らしい勢いを優先してますので悪しからず。
ワクワクもんですね。光光太郎です。
今回は漫画から映画化された作品である
の感想です。
原作は未読でしたが、本当に素晴らしい映画でした。
あらすじと解説
「週刊少年マガジン」に連載され、「このマンガがすごい!」や「マンガ大賞」などで高い評価を受けた大今良時の漫画「聲の形」を、「けいおん!」「たまこラブストーリー」などで知られる京都アニメーションと山田尚子監督によりアニメーション映画化。脚本を「たまこラブストーリー」や「ガールズ&パンツァー」を手がけた吉田玲子が担当した。退屈することを何よりも嫌うガキ大将の少年・石田将也は、転校生の少女・西宮硝子へ好奇心を抱き、硝子の存在のおかげで退屈な日々から解放される。しかし、硝子との間に起こったある出来事をきっかけに、将也は周囲から孤立してしまう。それから5年。心を閉ざして生き、高校生になった将也は、いまは別の学校へ通う硝子のもとを訪れる。(映画.comより引用)
概要
どうなってるんだ2016年。『シン・ゴジラ』『君の名は。』そして『聲の形』......。映画、それも日本産の映画が、どれもこれも魔球なんです。何が起こったのでしょうか。怪奇現象です。こわいです。さて、
もともとこの映画は全く意識していませんでした。精神的に辛い内容をアニメという形で戯画されると、辛さの本質が鋭いナイフの様に心に突き刺さるため、中々立ち直れないんですよね…。しかし、エグいエグいと噂になっていたので意を決して鑑賞してきました。するとまぁ…確かにエグみは強かったですが、何よりも人間の素晴らしさ力強さが示された内容だったため、清々しい気持ちで鑑賞を終えることが出来ました。
「魂震わす人間賛歌」としての太い軸が、一本通っていたんですね。その軸は「コミュニケーションの難しさと素晴らしさ」「必死に足掻くキャラクター達」「映画的な映像」という要素で構成されていました。
コミュニケーションの難しさと素晴らしさ
「聲の形」では主人公である石田を筆頭に様々なキャラクター達が登場しますが、彼らは上手く人と付き合うことが出来ません。それは変えることの出来ない自分の性格のせいであり、障害のせいであり、周りの環境のせいであり、過去の出来事のせいでもありました。
彼らは何かをきっかけにして諦めどころを見つけ、自分の尺度でコミュニケーションを行っています。しかし、彼らなりの尺度で生活していても、いや、彼らなりの尺度だからこそ些細な事をきっかけにして断絶が起こってしまう…それは繋がりも然りです。
上手く人とコミュニケーションすることが出来ない…ふとしたきっかけで起こる繋がりと断絶…そんな誰にでもあることが石田の物語によって戯画化され、強調されているのが「聲の形」という作品でした。
石田は小学生の頃行ったいじめが原因で孤立し、5年間もの間自己嫌悪し続けてきました。いじめを行った自分、母親に迷惑をかけてしまった自分という存在の否定が重なり、それが他人の拒絶へと繋がって、人の顔をみて話す事すら出来なくなっていたんですね。母親にもそのことを打ち明けられず、遂に自殺未遂まで行ってしまいます。
序盤の舞台となる小学校時代では、その環境や年代特有のコミュニケーションのやだみがハッキリと描写されていて、精神的にかなりきついです。私が最も辛かったのは、小学校という閉じた世界での「意思を無視した空気感」ですね。まぁ教育機関はどこも似た様なものでしょうが、特に小学校では個人の意思や物事の本質ではなく、表面上の事だけで判断されて世界が動いていきます。
深い思考や話し合いという術を子供達が知っているはずもなく、しかし大人たちは面倒ごとを嫌って偏見と力によって即時解決を目指す…小学校は理性や本性で築かれる場ではなく、短い思考で行われた日常の積み重ねで築かれている世界なんですね。だからこそ、本音ではない大きな声や陰口によって形成された日常では、小さなすれ違いが大きなうねりになってしまいます。
本音ではなく建前や理性で覆い隠した意見が横行する小学校での様子は、日本的コミュニケーションの暗部を見せつけられているようです。
いじめられる西宮硝子に関しても「言葉を上手く話せない」という痛烈な描写によって「この子とは関わりたくないかも…」と思わされてしまい、石田や植野達が通常のコミュニケーションではなくいじめに及んでしまうのも致し方ないか…と、残酷にも感じてしまいます。表現に全く逃げがありません。
孤立後の描写は物語然としていますが、いじめという題材を扱って強調しているだけで「過去に犯した過ちを後悔し続ける」「自己嫌悪」「コミュニケーションのフィルターがけ」等、誰もが経験したであろうことが描かれています。
生きる意味を見いだせない石田でしたが、いじめていた西宮硝子との再開や永束との出会い等、ほんの少しのきっかけと勇気で訪れた出会いを通して、石田は人とコミュニケーションを取り始めていきます。死を決意するほどに自分を嫌悪し続けてきた彼にとって、どんなに嬉しかったことでしょうか…。彼の行いが自己満足の贖罪であったとしても、彼の世界は少しずつ広がり始めていきます。
これは西宮姉妹も同じでしょう。硝子は石田との再会を機に小学校時代の友人や新しい友人と出会っていきます。それだけでなく、硝子は石田に告白しようともしました。健常者らしく振る舞うことに専念するあまり、その試みは空振りに終わってしまうわけですが…。 妹の結弦は姉を守るためだけの世界で生きていましたが、石田との交流を経て多くの人と関わっていきます。彼らの世界もまた、確実に広がっていったのです。
今までミクロだった石田の世界が小さなきっかけとほんの少しの勇気の積み重ねでどんどんマクロになっていく様は映画的快感を産んでおり、それが結実する遊園地でのシーンは多幸感に満ち溢れていました。その小さなきっかけと言うのが、本当に些細なコミュニケーションの積み重ねでもあって、人と人との繋がりが産まれていく喜びが上手く表現されていたと思います。顔にかかった×が取れていくという、触覚に訴えるような映像だったことも良い工夫だと思います。
しかし、繋がりが広がると、その分難しくなるのが人間関係というもの。ほんの少しの噂話から石田の過去が明らかになり、橋において友達との断絶が起こってしまいます。 それぞれが本音ともなんとも言えない自分勝手で刺々しい気持ちをあらわにしていき、壊したいわけでもないのに自ら発した言葉で繋がりを破壊していきます。
その口火を切り、誰よりも刺々しい非難を行ってしまったのは、他でも無い石田です。彼は結局、繋がりを自分から壊してしまった…。 触れたくない話題について話すだけでも辛いのに、それによって自分の浅ましさが露呈していってしまう…言いたくもないことを少しずつ言ってしまい、それが重なって不協和音となり、大きく反響していく…修羅場です。石田も嫌われたくないと思ったのか、自分から嫌われにいくような発言をしてしまいます。
今作において最も痛々しいのは、この橋のシーンでしょう。しかし同時に、彼らが本気でぶつかったコミュニケーションの機会であるとも言えます。刺々しくとも本音を上手く言えなくとも、彼らは必至で自分を伝えようとします。それが恐ろしい程に不器用なのですが、そこに「伝える」ことに関する諦めは無く、誰もが全力でコミュニケーションを取ろうとしていました。そこに救いがあるからこそ、私達観客もこの続きを追ってみたくなるんですね。
その後、完全に迷走気味となった石田は硝子やその家族と夏休みを過ごし、確執があった硝子の母親ともコミュニケーションをとっていきます。対して硝子はどこか気落ちしている様子で…なんと飛び降り自殺を謀ります。自分が石田を不幸にしていると感じていた硝子は、自殺することで壊れてしまった石田と友達の関係を修復しようとしていたのでしょうか…。間一髪のところで石田が助けますが、反対に自分が転落してしまい意識不明の重体となってしまいます。
硝子もまた、自己嫌悪を重ねていたのでしょう。小学校時代にも自殺未遂を行っていたことが伺えるので、もともと自分への値踏みが極端に低かったのでしょう。しかし自殺という行為は彼女を守るために生きてきた結弦や母親、祖母の気持ちを蔑ろにすることであるとまで考え付かなかったのでしょうか…それとも、家族にまで迷惑をかけていると思っていたのか…。
しかし、この一件をきっかけにして再び繋がりが産まれていきます。石田の母親と硝子の母親が5年ぶりに再会したことに始まり、硝子の母親と石田を看病する植野等、確執を持つ人物達が出会って「本音で」コミュニケーションを行っていきます。そして硝子は石田の見舞いに来た永束と出会い、彼にとって石田が親友であることを「本音の対話」によって知ります。
このことをきっかけにして硝子は「自分が壊したと思っていた」石田の友達と会う決心をし、川井や真柴、佐原、植野とも真正面から向き合いました。石田と結弦の心の距離を暗喩していた傘が、植野と硝子のやり取りでも使われているのが良いですね…。 意識不明状態から復活した石田は硝子と対面し、面と向かって話し合います。初めていじめの事を謝罪し「君と話がしたかった」と、今まで言えなかった本音をぶつけます。
後日、石田は硝子と一緒に高校の文化祭へ行きます。他人の顔を見ることが出来ず会話も聞けない石田ですが、硝子はそんな彼を助けつつ石田の文化祭を回ります。そして、橋で断絶していたはずの友人達と会い、自らの不器用さに必死に抗いながらコミュニケーションを行い、向き合っていきます。そして石田は、永束にとって自分は親友であること、川井が髪型を変えたこと、真柴が変わらず微笑みかけていること、植野が手話を覚えたこと、自分の母親と硝子の母親が仲良くなっていることを知っていきます。
石田は今まで聞くのを避けてきた周囲の音を聞き、前を向き、世界の広さに涙を流しながら、物語は終わります。
決定的な断絶と消失から、それぞれのキャラクター達は少しずつ本音をぶつけ、寄り添い合い始めたんですね。どうしようもない人間性を抱えたままでも、ほんの少しでもいいから自らの意思で近づいていく。植野が手話を通して硝子とコミュニケーションを取った姿や、迷いつつも会いに来た佐原の姿に、それが良く表れていると思います。
「聲の形」はエンターテイメント性を優先したドラマチックな物語では無く、現実と地続きの発想で作られた物語です。起こった出来事のほとんどが、環境や自分自身の性格、人生、他人に対して何重にも重なってきた諦めと、残酷な偶然によって引き起こされていたことからも、それは明らかでしょう。
作中で起こる精神的にキツい場面や袋小路の思考は現実にも起こり得ることであり、私達観客は否応なく「自分自身の人生」と向き合わされます。逃げ場のない石田やキャラクター達の状況と自分とを、重ね合わせてしまうんですね。
今作はそこに、ドラマチックかつ現実的な「個人の小さな勇気」が入り込むことで、いじめや障害者を扱ったタブー作品としてではなく、個人が問題を抱えつつもコミュニケーションへ向き合っていくという作品になっていました。
今作で最も石田を救った人物であると言える永束との出会いでも、硝子へ会いに行く決心をしたのも、結弦の心を開いたのも、石田の「小さな勇気」によるものです。この勇気を振り絞るために彼がどれだけ自分自身と向き合い、葛藤したことか…。「小さな勇気」によって昇華された出来事は点で見ると本当に些細なものですが、これが線になることで彼の閉じられた世界が広がっていくんですね。
これは石田だけでなく劇中に登場したほぼ全てのキャラクターに言えます。彼らもまた「諦めと偶然」によって引き起こされた出来事に対して「小さな勇気」を持って立ち向かい、もう一度コミュニケーションを取るんですね。 しかしこれは、彼らがフィクションのキャラクターだから出来ることでしょうか?いや、そんなことはありません。私達観客も、自らの人生の中で同じような経験をしているはず、そして、何度でも行うことが出来るはずです。
例え償いきれない罪を背負っても、変えられない人間性に絶望しても、分かり合えない他人に失望しても、自らが「小さな勇気」を振り絞ってコミュニケーションを行えば、何度でも世界は広がるんだと。そしてそれは、本当に小さな一歩だけど、とても感動的なことなんだと。自分自身の人生と向き合わされる辛い物語だったからこそ、こういった力強いメッセージを素直に受け止めることが出来ました。
「聲の形」はどうしようもなく絡まった現実の物語だからこそ、難しさを抱えてコミュニケーションを行うことの素晴らしさがストレートに伝わり、魂を揺さぶられる傑作になっていたんですね。
必死に足掻くキャラクター達
「聲の形」は現実的物語であると言いましたが、それを印象付けるのは何と言ってもキャラクター達の葛藤です。彼らにはフィクションのキャラクターとしての逃げ道が殆ど無く、現実の人生と同じように逃げ場のない状況に対して必死に抗っていました。ここでは次のキャラクター達の足掻きを、一人ずつ追っていきたいと思います。
・ 石田将也(主人公 ツンツン頭)
足掻き:いじめの過去と自己嫌悪
・西宮硝子(聴覚障害者 薄茶髪)
足掻き:聴覚障害と自己卑下
・西宮結弦(カメラ 黒髪短髪)
足掻き:姉と家族への思い
・永束友宏(デブ 変な髪型)
足掻き:本音過ぎるコミュニケーション
・植野直花(美人 黒髪ストレート)
足掻き:正しい自分と素直になれない自分
・佐原みよこ(そばかす クセッ毛)
足掻き:自分と他人へのコンプレックス
・川井みき(メガネを取ってしまった クリーム色)
足掻き:純粋な社会正義感と悪意
・真柴智(チャラい オレンジがかった茶髪)
足掻き:部外者
・石田将也(主人公 ツンツン頭)
足掻き:いじめの過去と自己嫌悪
そもそも小学校時代に行ったいじめにしても、彼にとっては上手くコミュニケーションを取れないことからの足掻きだったわけですが、それが原因で5年間もの間後悔と自己嫌悪に苦しむことになります。その果てに自殺未遂まで行いますが、彼は逃げ道の無い足掻きを経て、誰よりも優しい人間になったのではないでしょうか?過去の出来事によって歪んだ形であっても「成長」若しくは根っこにある人間性へ無意識に触れて優しくなったからこそ、永束や結弦は彼と友達になれたのでしょう。
彼は逃げ場のない自己思考の中で足掻きつづけました。人は間違いを犯すこともあるが、それと向き合って前を向くことは出来る…向いた先には世界が広がっているという、シンプルで難しい、だけどもそれが人間と人生の素晴らしさであるということを体現したキャラクターになっていたと思います。
・西宮硝子(聴覚障害者 薄茶髪)
足掻き:聴覚障害と自己卑下
彼女は先天性の聴覚障害を持ち、耳が殆ど聞こえません。その為健常者の様なコミュニケーションを取ることが出来ず(健常者でもまともに行えている人物はいませんが…)小学校ではいじめに合ってしまいます。公式サイトで『コミュニケーションの困難や失敗を日常的に経験してきたせいで、他人との摩擦を避けるため、愛想笑いが癖になっている』という記述があります。
愛想笑いや「ごめんなさい」が癖になっているのを見ると、他人から拒絶される事や自らが拒絶してしまうことを避けるあまり、当たり障りのないことしか言わない、諦めを前提とした尺度を作っていることが分かります。
こんな私に強い感情を抱いてくれる人なんかいない…心のどこかでそう思っていたのでしょう。だからこそ、いじめという形でも強いコミュニケーションをとってきた異性である石田を好きになってしまったのかもしれません。逆にいじめられるように石田に対して「頑張って」と言いながら取っ組み合いの喧嘩をしたのも、彼女なりの「本気のコミュニケーション」だったと言えます。
また、硝子は聴覚障害を持つ自分を徹底的に卑下している節があります。小学校時代の音楽の授業で必死に声を出す様子や、健常者であるかのように振る舞って石田へ告白を行うことからも、それを読み解くことが出来ますね。
その自己卑下の行きつく果てが、二度の自殺未遂でした。恐らく二度とも、石田に迷惑をかけてしまったと思いこんでしまった為でしょう。自分が死ぬことで深く悲しむ人がいることを想像することも出来ずに…。 劇中で植野に指摘されるように、彼女は負の感情をぶつける様な、本気で行うコミュニケーションをとるつもりは無いのでしょう。
そんな彼女が唯一本気でぶつかっていったのは石田でした。そして、その石田が勇気を振り絞って作った友達と再度出会い、復活した石田の全力のコミュニケーションを受けます。本気で自分と向き合ってくれた石田の為にも、少しずつ自分を好きになり、摩擦を恐れないコミュニケーションを取り始めていくことでしょう。植野に対して「バカ」と手話を返したシーンに、彼女の足掻きによる成長が見て取れます。
意思を伝えるための様々な障害があるからこそ、正も負も含めたコミュニケーションを行っていく…これもまた、点ではなく線で生きる人間の素晴らしさでしょう。
・西宮結弦(カメラ 黒髪短髪)
足掻き:姉への思い
彼女は自己卑下を重ねる姉を心配するあまり、他者と自分への拒絶を行ってしまいます。姉の周りには他人を寄せ付けず、自分の事を顧みないその姿勢には痛々しさがありました。
その強張った態度を崩すきっかけを作ったのは石田、そして永束でしょう。彼らの何気ない優しさに触れていった彼女の世界は、確実に広がっていきました。 姉の為に足掻きつづけた彼女も、今後は少しずつ自分の為に他者とコミュニケーションを行っていくことでしょう。
・永束友宏(デブ 変な髪型)
足掻き:本音過ぎるコミュニケーション
彼は今作において、最も本音でコミュニケーションを行っていた人物でしょう。親友である石田の為に行動し続けた彼がいたからこそ、彼やその周りの人物達の世界が劇的に動いていったことは確かです。もしかしたら、自分の為に行動してくれた石田に憧れて、自分を変えるための努力をし続けた結果なのかもしれません。
ただ、あまりにも素直に本音を言ってしまうため、良く伝わっていない様でした。 それでも諦めずに本音を言い続けたことで、硝子や結弦、石田の心に影響を与えていきます。常に真正面からぶつかり、全身で気持ちを表現する彼の姿は、ある意味で理想的なコミュニケーションの形なのかもしれませんね。
・植野直花(美人 黒髪ストレート)
足掻き:正しい自分と素直になれない自分
恐らく今作中で最も客観的な視点を持っていたのは彼女でしょう。他人や自分や環境に対する理解力があり、それを的確に伝える能力もあります。持って生まれた美貌や才覚もあり、客観的に見れば恵まれた人物だと言えます。
しかし、それらの能力は結局彼女に対して恩恵を与えることはありませんでした。客観的に見て正しいことや、その場の空気を読んだ行動を取れたとしても、それが自分の幸せに繋がることはなく、むしろ自分自身を傷付けてしまいます。
理詰めで正しいと思っても、それを言ってしまう自分を嫌っているのでしょう。それを石田に指摘されたことが、彼女にとってどれほど辛かったことか…。誰よりも本気でコミュニケーションを行い、足掻きつづけた人物であると言えるかもしれませんね。
・佐原みよこ(そばかす クセッ毛)
足掻き:自分と他人へのコンプレックス
彼女は小学校時代にいじめられていた自分にコンプレックスを抱き、変わる努力を続けてきました。そして、いじめた張本人でもある植野や硝子をいじめていた石田に対しても、苦手意識を抱きながらもコミュニケーションを取っていきます。高校生になってオシャレな服を着こなしている姿やジェットコースターでの会話を見ても、それは明らかですね。元々素直な頑張り屋なのかもしれません。
足掻いた結果形を持って変われた彼女でしたが、橋における断絶を見るに、やはり苦手な相手とのコミュニケーションは迷いながら行っていた様子でした。その結果石田と植野、間接的に硝子を拒絶してしまいます。
しかし、彼女も最後には苦手意識に向き合いながら、同じく他者との関わり合いに怯える石田と歩み寄っていきます。 足掻きとその結果が非常に分かりやすく適度な軽さな為、一番応援しやすいキャラクターでした。
・川井みき(メガネを取ってしまった クリーム色)
足掻き:純粋な社会正義感と悪意
彼女は植野から指摘されるように、自分を守るための行動を第一に取ります。それは社会的な善行であり、その環境の中で自分が良く見られるように振る舞うことでもありました。ぶりっことも受け取れる声で個人の気持ちを無視した綺麗ごとを喋りつづける彼女には、正直嫌悪感を抱きました。
彼女が意識的にせよ無意識的にせよ行っている社会正義は、その名の通り社会的に見れば正しいことであり、大多数の誰もが頷くことです。しかし、だからこそ余計に悪意を感じてしまいます。
ただ、これは誰しもが行っていることでしょう。彼女の場合、それが人間性の奥の奥まで染み付いているというだけです。 文化祭において彼女は、髪型を三つ編みに戻して石田と向き合います。女子が髪型を変えることには、少なからず理由がある…彼女は、例えこの瞬間だけでも、社会的に良く見せることではなく石田とコミュニケーションを取ることを選んだのでしょう。形から入るのも不器用ですが、他人の視線を気にする彼女がここまでするということで、その本気さが伺えます。
・真柴智(チャラい オレンジがかった茶髪)
足掻き:部外者
彼は小学校時代における石田たちの同級生ではありませんでした。劇中での描かれ方もぞんざいで、ぽっと出てきて石田と友達になり突然去っていった様に見えます。ですが、現実において何でもかんでも関係や因縁を持った友達ばかりではないはずです。突然現れて突然興味を持ち、知らなかった一面を知って拒絶し、また仲直りする…そんな普通な、軽い友達関係を築ける相手として、真柴は登場するのでしょう。
彼がどんな足掻きをしたのかは全く分かりませんが、恐らく軽く考えているのではないでしょうか。でも、それはそれでいいのだと思います。それもまた。コミュニケーションの一つの形ですから。
振り返ってみると、それぞれが自分の性格や過去の出来事と向き合い、どうしようもないことに足掻き続けていたことが分かります。何度も言うように、今作では物凄くドラマチックな出来事やフィクショナルな奇跡は起こりません。それどころか、恐ろしく停滞する現実が描かれています。
だからこそ、その中で少しずつでも足掻いていくキャラクター達が生命を持っている人間の様に、魅力的に映るんですね。 失敗も多いけれど、人間は何度でも立ち上がることが出来るということを体現するキャラクターばかりです。
映画的な映像
先ほどからドラマチックでないドラマチックでないと言っていますが、決して退屈な映画ではありませんでした。逃げ場なく停滞する、会話劇による精神的にキツイ物語な今作ですが、それを非常にスマートかつ映画的に魅せる様々な工夫によって全く退屈することなく、共感を持って観ることが出来たんですね。目立った工夫は「会話状態の見せ方」「音楽の使い方」「意識を向けさせる所作の数々」です。
前述した通り会話劇が多いのですが、その際の画作りが見事の一言。「顔を見て話せない石田」の視点になっていて、話し相手の顔が絶妙に見えないんですよ!これによって彼が誰に心を開いているのか分かりますし、この状態でのコミュニケーションの緊張感が感覚的に分かる様になっているので、会話劇だとしても全く飽きないんですね。
会話中の画作りにおいてもう一つ膝を打ったのは、傘を使った演出でした。これも心を開いているかどうかを示す物なのですが、キャラクター達が意識的に動かしているのでより分かりやすいんですね。何より小道具で関係性を示すというのがとても映画らしい!
意識を向けさせる所作の数々に関しては、枚挙に暇がありません。髪の毛の動きや服の翻り一つとっても見惚れてしまうようです。いいな!と思って覚えているものを列挙すると、次の通りになります。
・服のタグを外に出して着る石田
・植野の髪の動き
・マリアの成長?少し頭身が上がっている
・ちぎったパンのパンっぽさ
・しそジュースを氷入りグラスにいれる場面
・成長した佐原のファッション
・結弦のけだるそうな動き
・硝子の母親のシワ
・取っ組み合いの喧嘩のリアルさ
・水に濡れた後に乾いたノートのしわくちゃ加減
いじめや障害者を題材にしているということでそのエグさが際立って伝わっている今作ですが、重要なのはその点では無かったんですね。むしろコミュニケーションの素晴らしさや人間という存在の可能性、そういったものを等身大のキャラクター達で分かりやすく描き切った、人間賛歌映画の傑作だったんです。そしてこれは、日本でしか描けない人間賛歌の物語であった様に思えます。
正に日本版の「素晴らしき哉、人生!」であると言えるでしょう。
超個人的な感想
良かった点
①笑える描写があること
②公平な描き方がされていたこと
③希望に満ちて終わること
①笑える描写があること
永束周りは劇場でも笑いが起こっていて、雰囲気を軽くしてくれたのは嬉しかったですね。こういう重い作品こそ、映画的な笑いのシーンが必要であると思います。
②公平な描き方がされていたこと
「こいつが一番悪い!」様に描かれていた主要キャラクターは皆無だったため、フラットな視点で見ることが出来ました。現実においても、絶対的な悪者と言うのはそうそういませんからね。誰もが悪く、誰もが良い。だからこそコミュニケーションで相互理解を行う必要があるのですから。
③希望に満ちて終わること
これは本当に嬉しかった…!この絵柄で絶望的な終わりだと相当精神を抉られますからね…。戯画化されるとよりきついんです。石田たち子供世代だけでなく、母親たちも繋がって終わるのは安心しました…。
残念だった点
①ご都合主義展開
②フランスパンを選び続ける石田
③悪役過ぎる小学校
①ご都合主義展開 断絶の際に全員橋の上にいたり、石田を助けたのが島田達だったり、割とご都合主義的な展開が多かった印象があります。あとは遊園地において横並びで歩くところですね。あれは映像のご都合主義ですが、実際やられると超迷惑なので辞めて頂きたい…。
②フランスパンを選び続ける石田
石田!そのセンスは残念だぞ!確かに量はあるけど!
③悪役過ぎる小学校
公平な描き分けがされる中で、唯一完全な悪役として描かれるのが小学校側。まぁ環境ですし仕方ないかもですが、あの教師はどう見ても悪党。原作もそのようですが…。個人的にかなりノイズでしたね。
〆
題材が重いとか劇場数が少ないとかTwitterで色々問題になってるとかいう理由で観ないのは非常にもったいない大傑作なので、是非劇場でご覧ください!本当に、魂を揺さぶられますよ!
映画:ペンギン・ハイウェイ ~熱血ジュブナイル爆誕~
何にも考えずに「面白がれる」物語は意外と少ない。
テーマが自分にドンピシャでも演出が面白くない、エンタメとして楽しくても物語が全く響かない…映画に限らず物語作品全般において、テーマ性とエンタメテクニックが自分にガッチリとハマり「面白がれる」ことは、極めて稀だと思う。
だからこそ、ドンピシャな作品は大切にしたい。今回は私にとって「面白がれる」物語だった
の感想を書いていきたい。原作未読。
作品情報
原作:森見登美彦
監督:石田祐康
脚本 :上田誠(「夜は短し歩けよ乙女(原作は森見登美彦)」の脚本)
キャラクターデザイン・演出 :新井陽次郎
演出:亀井幹太
監督助手:渡辺葉
作画監督:永井彰浩、加藤ふみ、石舘波子、山下祐、藤崎賢二
美術監督:竹田悠介、益城貴昌
色彩設計:広瀬いづみ
CGI監督:石井規仁
撮影監督:町田哲
音響監督:木村絵里子
音楽:阿部海太郎
主題歌:宇多田ヒカル「Good Night」
声優陣
アオヤマ君:北香那
お姉さん:蒼井優
ウチダ君:釘宮理恵(キュアエース)
ハマモトさん:潘めぐみ(キュアプリンセス)
スズキ君:福井美樹
アオヤマ君のお父さん:西島秀俊
ハマモトさんのお父さん:竹中直人(仙人)
原作。おっぱいは隠れて見えない。
雑感
今作はネットで話題になっているような、小難しいSFやおっぱい連呼よりも何よりも、誰もが楽しめる「分かりやすい物語」なんですよ。利己的から利他的に、惚れた女の為に、自分自身で世界に意味を付ける為に……子供の成長譚としてカタルシスに満ちた娯楽作!
テーマは分かりやすく、エンタメとして盛り上がれる工夫を凝らす。「君の名は。」や「シン・ゴジラ」に通じる、エンタメスピリットを感じましたよ。
原作は児童向け文庫にもなってるらしい。児童向けギリギリを責めるおっぱい。むしろ髪のタレ具合がエロい。
背伸び子供が成長する物語
前述した通り今作のテーマは「成長」。アオヤマ君は異性への好意を自覚して自分を変えていくので、恋による成長だ。
アオヤマ君は天才で努力家、暴力に怯えず立ち向かう勇気も最初から持っている。しかしそれはどこか利己的で自己中心的。彼が行う研究も「偉くなるため」のもの。蒼井優演じる(ねちっこい声が堪らない)お姉さんを「結婚したい相手」とは言うものの、それは結婚という制度を知っていてそう言っているだけに聞こえる。
彼は大人顔負けの「力」を持っているが「心」がまだ未熟なのだ。この「心」の成長が今作の激エモポイントになるのだが、これを促すのは見事なおっぱいを持つお姉さん。
お姉さんはアオヤマ君によるおっぱい研究対象兼片思い相手なのだが、当のアオヤマ君は冒頭では恋を自覚していないと思われる。何故おかあさんのおっぱいではなく、お姉さんのおっぱいにだけ惹かれるのか?を大真面目に研究する位なので、性的な目で見ていない。いや、見てはいるだろうが、ロジカルに研究する意欲の方が勝っているのだろう。
そんな彼がお姉さんを好きだと気づき、もっともっと知りたいと思った。痛みを分け合いたいと思い実行した。しかし知れば知るほど彼女の存在は手の届かないものに…せっかく芽生えた恋心は、世界救済と引き換えに思い人が消える幕引きにしかならないと、天才ゆえに知ってしまう。
それでも!思い人の望みを叶える為にアオヤマ君は走る!考える!
未知を解き明かし、意味づけし、既知にして、世界のルールを変える為に。これぞまさに「研究」であると思う。利己的から利他的に、力ではなく心で、これから彼は研究を続けていくのだろう。
子供が恋を知り、喪失を知り、世界への立ち向かい方を知って大人へと成長する…苦くとも爽やかなブラックコーヒーのような、大傑作ジュブナイル爆誕を劇場で観れたことが何よりも嬉しい。
(まぁこういう作品が刺さるのは、現実において自分は実践できていないと思っているからなんだけども…でも少しでも、アオヤマ君に近づきたいと思うからこそ、毎日頑張る元気を貰えるんですよ!!!!!!)
コミカライズ。かなり映画に似せてるけど、お姉さんは少し肉付き良くなった?
面白がれる話の組み立て
主人公であるアオヤマ君は、正直嫌な要素をたくさん持ったキャラクターだと思う。
小学四年生にして勤勉努力家ロジカルシンキング、口先で人を泣かすほどに弁が立つし、勇気もある。しかもそれを自慢しない。要素だけ挙げれば、こんな完璧キッズのラブコメなんて見たくないわ!となるが、本編を観てみると全くそうならないのだ。
その理由は、開始直後に「大真面目に論理的におっぱいの研究をしている」ことを見せつけるからだ。これによって、頭はいいがどこかズレている、しかしとても純粋な子であることが一発で分かる。同級生のウチダ君に対する一方的かつ過剰なロジカルトークでダメ押しだ。完璧に見えるが抜けてる部分もある、愛すべきキャラクターであることがすんなり入ってくるだろう。
アオヤマ君の導入をはじめ、今作は話を順序良く組み立てることで行動をスムーズに理解出来るようにしている。
白眉だと思うのは、アオヤマ君が断食するくだりだ。
「お姉さんが3日間何も食べていないのに大丈夫なのは何故なのか?」を自分で実践するのだが、まぁ小学生がそんなことをすれば体調崩すのは当たり前なわけで…。熱発で寝込んでしまうことに。しかし、恐らく彼は、1日(1食?)食べないだけでこんなに苦しいのに、何故お姉さんは大丈夫なのか?もしかして耐えているだけなのか?それとも…色んな事を考えたはず。人の痛みを体験することで、彼はお姉さんについてもっともっと知りたいと思った。勿論、痛み苦しみを想像できるようになった。
だからこそ、彼がハマモトさんのお父さんを助けるために走り出すことに明確な理由が付くし、生涯を懸けてお姉さんを助けるという決意にも強い強い芯が出来たのだと思う。
というか、痛みを知った人間が誰かを助ける、という展開が熱すぎる。だからこそ、お姉さんを失うのが辛すぎるんだけどねぇ…。
メインビジュアルでがっつりおっぱいを見ているアオヤマ君。因みに私も大学の友人から「いっつもおっぱい見てるよね」と言われたことがあります。今も治ってないね、きっと。
楽しすぎるワクワク要素てんこ盛り
とまぁこんな小難しいことを抜きにして、頭空っぽで楽しめる要素がてんこ盛りなのだ。
まずは何と言っても美麗な作画。
自然が多い郊外住宅地がリアルに描画されていて、時々実写と見紛う程。かと思えば「海」がある原っぱや暗闇洞窟手前にある駅といった少し変な風景が現れたりする。極めて現実に即した形でファンタジーを描いているし、画面の全てに意味を含ませているので、映像を観るだけでも楽しい。
次は研究パートだ。
詳細に書き込まれたアオヤマ君のノートは是非ともじっくり見たいので、先ほど載せた資料集は買わざるを得ない。彼は「思考の足跡」をメモるタイプだから見せるだけで伝わるのが映画としてスマートだった。研究時に行われるロジカルシンキング、そこから結論が導き出された時のカタルシスは、課題解決をゲームとして捉える人にとっては堪らないだろう。そうでなくとも、アオヤマ君達が好きなことにのめり込んでいく様に共感を覚えない人はいないだろう。
最後に挙げたいのは怪獣要素。
後半になって突然、とんでもなく気色悪い怪獣=ジャバウォックが出てくる。ダレン・シャンに出てくる「色んな所から手が出ている怪物」みたいなキモイのが、本当にいきなり現れてくるので心底ビックリしてしまった。よく「日常に侵食してくる怪獣」という描写や表現があるが、それを全く匂わせずにぶち込まれたのは初めてかもしれない。
おっぱいは言わずもがな、なんでね。
〆
120分近い、アニメとしては結構な長尺がちとキツイが、間違いなく2018年を代表するアニメ映画、邦画になる傑作だ。週末興行収入ランキングで初登場10位と出だしは悪いが、私が観た回は平日にも関わらずほぼ満席だったし、口コミで話題が広がっているのだろう。おっぱいがどうこうと言うのは気にせず(こんな描写で気になる位なら日々CMで垂れ流されるソシャゲやらアニメやらの爆乳キャラの方がよっぽどNGだろう)、全国の小学生達にぜひとも観て欲しい。そしてブラックコーヒーを飲み、夏休みの自由研究をしてみよう!!!!
映画:BLEACH ~最悪のオチに勝てるか?~
仮面ライダー好きとして、仮面ライダー俳優は応援したくなるもの。クウガのオダギリジョーをはじめ、電王の佐藤健、Wの菅田将暉、ドライブの竹内涼真等、ドラマや映画やバラエティーに出ているとつい見たくなる。
そんなわけで今回は、仮面ライダーフォーゼ組の福士蒼汰、吉沢亮、真野恵里菜が出演した
の感想を書いていきたいと思う。原作未読、アニメを尸魂界編まで観た位のBLEACH弱者だが、楽しめた…かな…?
作品情報
監督:佐藤信介
脚本:羽原大介
佐藤信介
原作:久保帯人「BLEACH」
製作:和田倉和利
製作総指揮:小岩井宏悦
出演者:福士蒼汰(フォーゼ)
杉咲花
吉沢亮(メテオ)
真野恵里菜(なでしこ)
小柳友
田辺誠一
早乙女太一
MIYAVI
長澤まさみ
江口洋介
撮影:河津太郎
編集:今井剛
監督、撮影、編集はいつものトリオ。最近だと「アイアムアヒーロー」が抜群に面白かった。ゾンビ映画の中で「多数のゾンビと殲滅戦」を描いたのは世界で見ても珍しいのでは?
bright-tarou11253350.amebaownd.com
以前書いた感想ブログ。そういえば長澤まさみとはここでも組んでますね。
雑感
もともとキャスト目当てに観たからか、その面では大満足。福士蒼汰はフォーゼの如月弦太朗とは異なるタイプの不良、捻くれながらも熱いものを持つ優しい不良としての黒崎一護を好演していたと思う。そもそも、オレンジの髪が全く違和感なくまとまっているってのが凄いのだ。
一護を死神にした張本人にして相棒となる朽木ルキアを演じる杉咲花は、とにかくもう全力で役に向き合う。本来のルキアは100歳を超える人物なので落ち着いた先駆者といった感じだが、今回は一護と同年代の女の子の様な一生懸命さがある。頑張って出してるな!という高音の声と、頑張ってるな!という表情等、観客が「頑張ってるな!」と見守りたくなるキャラクターになっていた。
メインの二人以外も好演揃い。仮面ライダーメテオ、朔田流星を演じていた吉沢亮はあの時を思わせるライバルキャラ、石田雨竜として登場。最初こそ一護に突っかかり物陰から観察するものの、緊急時には思わず助けてしまうのも流星そのまんまで、戦闘中にいつ「ホワチャ~~~!!!!」と言い出すか心配になる位だ。
意外にもハマリ役&映画の深みをグッと増す存在として欠かせないのが、一護の父を演じる江口洋介と怪しい古物商である浦原を演じる田辺誠一。
まず江口洋介だが、ドラマとかで見る江口洋介そのまんま。荒っぽくも優しい色男だが少し三枚目な父親役なのだが、どう見てもいつもの江口洋介。しかし、通常運転の江口洋介だからこそ、突飛な設定だらけの今作にリアルなドラマを持たせている。妻(長澤まさみ)の墓前でビールを飲むシーンが顕著だろうか。そういえば医者っていう設定はなくなったのかな?
続いて田辺誠一。元キャラが持つ怪しいオッサンの雰囲気に寄り添いつつ、飄々としたお調子者ではなくどっしり構えた大人というアレンジを加えている。物語を振り返ってみると「意味深なことを言うオッサン」にしかなっていないのが残念だが、彼の本領発揮は尸魂界編以降なので、これも仕方なしか…。
他にも、チャドにしか見えない小柳友、絶妙なムチムチ感(同期談)で井上織姫を演じる真野恵里菜、狂犬の阿散井恋次を体技込みで演じる早乙女太一、誰がやっても文句を言われるであろう朽木白哉をルックスで再現したMIYAVI等、総じてキャスト陣は好演だった。
白黒漫画を実写映像へ変換した映像
予告編でも印象的だったコントラスト強めの撮影は、特に夜間と室内において使用された。明暗のエッジが効いた映像は単純にカッコいいが、これは白黒漫画のコントラストを実写映像へ置き換えるという試みだったように思う。ルキアが室内に突然現れるシーンや一護が初めて死神となるシーンが最も顕著だ。
惜しむらくは、これが最終決戦においてほぼ用いられていないことだろうか。グランドフィッシャーとの決戦や死神たちとの戦い自体は迫力があったが、もうちっと照明にメリハリをつけて欲しかったところ。
盛り上がらない物語
キャスト、映像は良かったが、全体を振り返ってみると決して上手く面白い映画だとは言えない。
まずは序盤と終盤しか盛り上がらない物語構成。アニメを見てみると、元の話を上手く再構成し、グランドフィッシャーとの因縁や死神たちとの戦いにクライマックスを持ってくるのは上手いなと思うものの、虚たちとの戦いがほぼオミットされているので派手な戦闘があるのが序盤と終盤しかないのだ。戦闘がなくてもドラマで盛り上がればいいのだが、音楽流しっぱなしだったりテンポが悪くどんよりしたムードで進んだりといまいちパッとしない。そもそも思っていることの全てを台詞にしてしまうので情緒も何もない。
しかし、話の筋が一本通っていれば物語として面白くなるはず。だが、今作はその筋を最後の最後で台無しにしてしまう。
「守れなった男の物語」として最悪のオチ
実写版BLEACHは「守れなかった男の物語」として一本まとめようとしている。母を守ると約束したのに、逆に自分が守られ母を死なせてしまった……色んな者を助け守ろうとしてきた一護が再び守られていたことに気付き、今度こそ「必ず守る」ための戦いに赴く…という物語だ。
だからこそ、彼がルキアを守るために死神たちへ啖呵を切るシーンは燃えるし、猛特訓する様を応援したくなる。苦戦しながらもグランドフィッシャーを倒した時は思わずガッツポーズした。白哉に何度切られても喰らいつき、地べたを張ってでも意地を通そうとする姿には「ロッキー」を重ねずにはいられない程の熱さを感じた。
が!!!!!!!!
最終的には元の展開通りルキアに助けられ、一護は一命をとりとめるがルキアは尸魂界へ連行されてしまう。一護はまた、守られてしまった…。グランドフィッシャー戦のカタルシスも、白哉戦での食い下がりもぶっ飛ぶ尻すぼみ感。原作通りとはいえ、ここは映画ならではのオチを付けて爽快に終わって欲しかった。こんなどうにもならない話、これまでの物語が全部無駄になるような話を原作ファン以外が喜ぶとでも思うのか…。
この後はルキアに関する記憶が関係者から消されるのだが、映画オリジナル展開として一護も記憶を失ってしまう。しかし、教科書に書かれたルキアのメモをきっかけにして記憶を取り戻したような描写が入り、エンドクレジットへ。
正直、失笑である。何もなかったことになりました、チャンチャンな流れも噴飯ものだが(そうするならそうするで、もっと喪失感漂う感じにしてほしい。ここではさも全ていい方向に転がりましたという雰囲気になっている。)、こういう、ロジックも無しで思い出して終わりというのが一番腹が立つ。お前は「アメイジングスパイダーマン」か!!!!!!!!
結局のところ「守れなかった男の物語」は、再度守れず、再度守られるという最悪の結末で終わる。前述した通り、それで〆るならそれらしい演出と終わりにしてほしかった。原作ではこの後尸魂界編になるのでもう一度守るための戦いに赴くことになるのだが、それなら今回のお話は繋ぎ以外の意味はなくなってしまう。原作の死神代行編の結末をなぞるのではなく、映画オリジナルの展開して「守れなかった男の物語」をやり切ったり、ルキアとの友情で爽やかに終わったりと、色々出来たのではないだろうか…。
もう一度!守るんだ!という話に大いに心を熱くさせた分、冷や水をぶっかけられて意気消沈した絶望感が半端ではなかった…。
〆
キャスト陣、最高。
映像、カッコいい。
アクション、見応え十分。
脚本、最悪。
結局、続編ありき。
興行収入、大コケ。
このコンビネーションは前年のワーナーによる実写版「ジョジョの奇妙な冒険」を思い起こさずにはいられない(あちらは脚本は良かったが)。どちらも最悪な映画とは全く思わないが、ヒットさせるにはパンチもサービスも不足していた。
もういっそのこと原作者を取り込んで、敏腕プロデューサーや監督との強力なトリオを組まないとどうにもならないのではないか?MCU等の大資本と比べるべきでないのは重々承知だが、本腰を入れてドラマアクション撮影プロデュースを行わないと観客が付いてこないのは実証されてしまっている。
だからこそ、ジョジョもBLEACHも続編をぜひとも製作して欲しい。ここで終わらせるには惜し過ぎる。尸魂界編こそ、ルキア奪還という一本筋に乗せてアクションやバトルで物語を紡げるのだから。(斬月のオッサンは高橋一生か大塚明夫さんで)
映画:舞台恐怖症 ~演じて騙して裏切られて~
引き続きヒッチコックエンタ映画を観進めているのだが、彼は本当に「濡れ衣を着せられた者の話」が好きだなぁ。観客が主人公達に感情移入しやすい、応援しやすい、映画にのめり込みやすいプロットだと確信していたんだろうか。
そんなわけで今回感想を書いていくのは
舞台恐怖症
だ。例に漏れず原作付きの映画でありながら、どう観てもヒッチ流サスペンスなのだから面白い。
作品情報
公開年:1950年
監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:ホイットフィールド・クック
アルマ・レヴィル(ヒッチコックの奥さん)
原作:セルウィン・ジェプソン
製作:アルフレッド・ヒッチコック
出演者:ジェーン・ワイマン (イヴ)
マレーネ・ディートリヒ (シャーロット)
マイケル・ワイルディング (スミス)
リチャード・トッド (クーパー)
音楽:レイトン・ルーカス
撮影:ウィルキー・クーパー
編集:エドワード・B・ジャーヴィス
雑感
アンフェアな話運びと終盤の展開で世間的評価は落ち気味な今作であるが、なかなかどうして、面白い。罪を着せられた者の逃走劇、身分を隠してのハラハラ真相究明、満を持しての最終対決まで盛り上がりは持続するし、映像トリックもモリモリで「どうやって撮ったんだ!?」と驚かせてくれる。こういったいつも通りのヒッチコック節に加えて、舞台女優達を題材にした演技サスペンスを肝にしたり、チームもの的要素もあったりと新しいものをしっかり見せてくれるので、やはり楽しい。
演技を武器にして進むミステリー
今作はサスペンスというよりも、真相究明を第一にしたミステリーだ。
大女優シャーロットから殺人の罪を着せられた恋人クーパーの無罪を証明するために、女優の卵であるイヴは世話係としてシャーロット邸に潜り込む。イヴは弱弱しい女性から気が利く世話係まで、様々な役を演じて騙し徐々に情報を手に入れていくことに。シャーロットは勿論、紳士な刑事スミス、交渉して入れ代わった世話係にも正体がバレてはいけない…。バレるかバレないかサスペンスであり、探偵ミステリーのようでもあるのが面白い。
最後の最後でキーになるのも演技力だ。稀代の大女優でありシラを切り通してきた女傑であるシャーロットを相手に、ペーペーの新米であるイヴが演技で立ち向かうという構図は燃える。実際は演技よりも小道具がキーになっているのだが…(笑)。
信用できない語り手
演じるということは嘘をつくことであるが、登場人物が嘘をつき人を欺きまくっている今作は正に演者映画だと言えるかもしれない。そして一番最初に嘘をつくのは、冒頭で初めて状況を説明してくれる、間違われた男ことクーパーだ。ここにこそ、今作の大きな仕掛けにして問題点がある。
実は、クーパーは本当に人を殺していて、あんなにも怪しいと思っていたシャーロットの主張が正しかった。冒頭のフラッシュ・バックは全部嘘だったのだ!
先ほど今作はミステリーであると書いたが、示される前提が真っ赤な嘘、ミスリードなので厳密にはミステリーでないかもしれない。しかし、これはこれで「信用できない語り手もの」としてのショックを与えてくれる。自分が愛した男は殺人者であり、狂人であり、自分を騙して、あまつさえ今自分を殺そうとしている!!!!目線に強烈な光が当たる演出と相まって、突きつけられる真実とこれまで信じてきたものが崩壊するショック!!!!!また、イヴへの光の演出は目を強調することによるショック表現だが、クーパーへの光は「狂人への変身」に見えるのが堪らない。
惜しむらくは、種明かしの全てがセリフだけで済まされてしまうので若干混乱してしまうことと、冒頭のフラッシュ・バックがミスリード以外の物語的意味を持っていないことだろう。後者はともかく、前者は結構きつかった。何度も巻き戻して会話を聞いてやっと理解できたかな…(笑)。
映像ギミック
ヒッチコック作品では大胆なカメラワークや特撮が見どころでもある。今回特筆したいのは冒頭で炸裂する、非常に地味な、それでいて大胆なギミックだ。
一つ目は、シャーロット邸に入るクーパーを追うカメラワーク。遠くからクーパーの背中を撮り、徐々にクローズアップ。扉を開けて閉めて階段に上り2階へ上がるまでを1カットで撮影している。手持ちカメラが普及した今では珍しくないが、1950年代の映画撮影用カメラはまだまだ巨大だったはずだし、大掛かりなカメラワーク用セットにするにしても家の外観がしっかり作ってあるしで…度肝を抜かれた。物語としても侵入から探索までをカット無しで追っているので緊張感もある。
二つ目は、クーパーとシャーロットが話す場面。画面奥ではクーパーが窓際に立ち、手前ではシャーロットが髪をセットしている。何気ない場面だが、シャーロットの姿の縁に白線が見えるので恐らく合成しているのだろう。次の場面、クーパーがシャーロットに近づくところでは合成の線が無くなっている。時間にして数秒、別に大したことない場面で何故合成を使ったのかは分からないが、シャーロットにもクーパーにもピントが合っているのでどこか緊張感のある画になっている。こけおどしにも全力で技術を使うのがヒッチコックらしい。
他にも、色んな服に血のシミを浮き出したり、ミニチュアっぽい湖畔の家が登場したりと、様々なギミックがてんこ盛りだ。第一、本当かと思ったら嘘だった、演技かと思ったらホントだったという今作のお話そのものが超小手先のギミックだと言えるだろう。
〆
さて、そろそろ結びといこう。
他のヒッチコック作品に比べ、安心して楽しく観られるエンタメ作品であると思う。イヴのお父さんがみせるコミカルな演技もしたたかな知略家ぶりも楽しい。ヒッチコック作品を色々観た後に観るのがおススメです。