映画:ザ・バニシング -消失- ~君が選んだことだろ?~
こんにちは。光光太郎です。
厭な話、後味が悪い話ってのは非常に需要があるもので。私もかなり好きで色々観るし読むんですが、そんな思考を逆手に取られた、恐い恐い映画を観てきました。
というわけで今回は、1988年作品ながら今年日本初公開の
ザ・バニシング -消失-
の感想を書いていきたいと思います。ネタバレしまくるから注意だ!!!!!
■鑑賞後ツイート
「バニシング 消失」を観た…。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月22日
面白い……けど重い…。ジャンルとしては失踪ものなんだが、エンタメはほぼなしでじっくりと、とある思いに囚われた二人の男の物語を交互に描いていく。見た目は地味だが画面内情報量は盛りだくさんで、これぞ映画だなと。あとあの劇盤ね!
「バニシング 消失」
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月22日
なんの楽器を使っているのか分からない、何を奏でているのかが分からない、ただひたすらに不快な劇盤が堪らない。しかもここぞという時にしか流れない。
■失踪もの
今作はいわゆる「失踪もの」で、旅行中突然いなくなってしまった恋人サスキアを探すレックスと、彼女を連れ去ったと思われる男レイモンの両者の視点が交互に描かれていく構成になっています。
人がいなくなる映画は洋邦問わず多くあります。失踪の理由を追ったり、誘拐犯との交渉を見せ場にしたりと、焦点を変えることで様々なエンタメを生み出してきたジャンルです。
私の年代で失踪ものと言えばコレ!
では今作における「失踪もの」としての面白みは何か?
それは好奇心を逆手に取った構成でしょう。何故サスキアは誘拐されねばならなかったのか?どんな目にあったのか?よく言われることですが、謎を主眼に置く失踪ものはタネを明かされると途端に物語のテンションが落ちてしまいます。
これを見事に克服し、恐ろしくも熱い展開へと昇華させたのは「バニーレークは行方不明」「ゴーン・ガール」位だと思っていましたが、今作はこの2作とは全く異なる方策「ラスト数分前まで被害加害者共に『失踪』へ好奇心を持ち続ける」という大胆すぎる方法で、恐ろしいほど綺麗に物語を集約させます。失踪ものが全部こんなのばっかりだと辛いけども!!!
名作失踪サイコサスペンスミステリー
■強制的な感情移入
ちょっと目を離した隙に子供がいなくなっている、いつまで経ってもトイレから戻ってこない……先ほどまで一緒にいた人が突然いなくなってしまい慌てるというのは、誰もが幾度も経験したことがあるでしょう。この「いなくなった……?いない!やばい!」が序盤のクライマックスになるんですが、この描き方が非常に上手い。リアルすぎる。
例えば、買い物から帰ってこないサスキアを心配するレックスは一度彼女を探しに行こうとします。しかし離れている間に戻るかもしれない…どうしよう…よし、メモ書きを残せば安全だ!となり、メモをワイパーに挟んで探しに行く…。この心理、絶対誰もが経験あるはず。登場人物の心情を観客側が自らくみ取りにいくよう仕向けられているわけです。
ここまでくればもう、完全にレックスに感情移入してしまいます。サスキアが向かった店内へ行き聞きこみするも有力な情報は得られず、あまつさえ邪険に扱われる、「それがどうした?」位にしか対応されない。張り裂けそうなほど心配しているのに、夫婦喧嘩の延長としか見られない…事の重大さを他者と共有できない状況になっています。これも大なり小なり経験がありますね。しかもここでは音楽が流れず、周囲の雑踏が聞こえるのみ…ますます焦ります。
「失踪もの」序盤の醍醐味は、何が起こっているのか分からずただひたすら心配することだと思いますが、これを忠実に行っているわけです。そしてこれは、前述した通り観客の感情移入を容易にし映画へのめり込ませるためのテクニックでもあると。
しかしこの映画はレックス視点のみでいくというぬるま湯に浸らせてはくれません。なんとサスキアを誘拐したであろう犯人、レイモン視点の話が始まります。謎が明かされても更なる謎に引き込まれる、正にサイコパート。
何度観ても面白い、サイコサスペンスの決定版!
■犯罪者=探究者の心理
劇中でレイモンが犯人だと明確に告げられるのは後半だが、初見で犯人がレイモンであることは誰しもが分かるだろう。つまり今作は「誰が犯人か?」で引っ張る話ではないのだ。何故彼が「誘拐」という悪事を決行しようとしたのか?という理由を、時制を遡って探っていくのがレイモンパートだ。
前述(何回使ってんだ)の通り、彼には強い好奇心がある。実行する度胸、準備を重ねる慎重さ、努力を惜しまない姿勢…何よりも全てを楽しそうに行っているからこその愛嬌…こう言うと面白いキャラクターの様だが、その通り非常に魅力的な人物だ。良き家庭人として家族を支えているし、大学教諭としての職にも就いている。その好奇心が「究極の悪とは何か?」に向けられなければ、こんなことにはならなかったろう。
余談だが、人生最初に震え上がった「悪」は「ダークナイト」のジョーカー
感情移入を重視したレックスパートとは異なり、レイモンパートでは彼の心情に同調できる箇所はほぼ無い。しかしながら、その行為は実に魅力的に映る。トライ&エラーを重ね誘拐計画をブラッシュアップしているというのに。観客はレイモンという人間にどうしようもなく好奇心をそそられてしまうのだ。感情の赴くままに遊ぶ子供の様にも映るので、庇護欲をそそられもするだろう。一切感情を吐露させることなく、行動の積み重ねだけでここまで魅せる手腕に脱帽。
興味だけで人を殺すクソ野郎を魅力的に映してしまう…先ほどまでは被害者であるレックスに共感していたはずなのに…この感情のグラつきに気付いた時、もうこの映画が恐ろしくて面白くて仕方なった。感情移入をコントロールされる、これぞ映画だと。
というかね、何度も何度も繰り返される「ナンパシーン」がコミカルすぎるんだよ!!!笑うけど怖いわ!!!!!ジャケットのボタンを閉めるな!!!!!!
■欲望の結果を突きつける〆
綺麗に3分割された今作。失踪が起こるレックス視点、犯罪者の心理に迫るレイモン視点、そして2人が交差し対峙するラストパートだ。ここに至って観客は、自分の好奇心=こういう映画が観たい!という心理を逆手に取られ、2人の探究者の心情と完全にリンクする。彼らの破滅的行為、残虐行為の片棒を、観客は背負わされることになる。
だって、結末知りたいから!!この面白い映画のラストを観たいからさ!!!!だから、レックスには「コーヒー」を飲んでもらわないと「困る」んだよ!!!!!!!!
そして結末…敢えて詳細は書きませんが、サスキアとレックスに起こった事態に関してはあっさり風味。しかしその意味を考えると、彼らがどこにいるのか、レイモンの表情の意図を考えると…レイモンが導き出した「究極の悪」とは、家族を愛する自分自身を傷つけ続けることだったのかもしれません。
人間の業というものをシンプルにシンプルに突き詰めて描き切った、もうここまで来たら人間賛歌とも思えるような、奇怪な失踪ミステリでしたよ。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」公開前に、ゴジラの思い出を振り返る
こんにちは。光光太郎です。
5月31日に「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」が公開されます。
2014年のレジェンダリー版、ギャレス・エドワード監督「GODZILLA」の続編にして、モンスターユニバースの最新作。
アニゴジがありシンゴジがありレジェゴジがありと、ここ数年でゴジラ最新作が立て続けに発表されていますが、2014年以前は全く考えられなかった事態です。そもそも「巨大特撮」というジャンル自体が風前の灯火でした。いや〜本当に、本当にいい時代が来てくれた…!!生まれた時からゴジラを浴びてきた身としては、感無量ですよ。
いや、別にゴジラシリーズが最高絶対の映画シリーズである!とまで思っていません。ドラマが冗長だったり怪獣バトルが地味だったり過去映像使いまくりだったりと、色々タルい所も多い。しかし、ゴジラシリーズや東宝特撮映画にしかない魅力は確実に存在し、だからこそ20年以上も惹かれ続け観続けているんです。
という訳で今回は、私がゴジラ・コンテンツとどう関わってきたか?を綴っていければなと。回顧録。
- ◼幼少期 〜VSシリーズ〜
- ◼小学生低学年 〜白目からFWまで〜
- ◼中学から高校 〜昭和シリーズ掘る〜
- ◼大学 〜パシフィック・リム、そしてギャレゴジ〜
- ◼大学 〜シン・ゴジラという現象〜
- ◼社会人 〜アニゴジ戦争勃発〜
- ◼現在 〜新たなるゴジラへ〜
◼幼少期 〜VSシリーズ〜
父がゴジラシリーズを始めとした特撮作品好きで、幼稚園時代から色々見せてもらっていました。この時期に観たのは「ゴジラ(1954)」「ゴジラ対メカゴジラ」「ゴジラVSメカゴジラ」かな?これらか「ロッキー」か「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」が映画初体験だったはず。
この正方形のDVDだった!
まぁまだ昭和ゴジラによく出てくるガキよりもずっと年下だった私ですから、ゴジラを見せられても全く分からないわけです。父が隣で「核の脅威が…オキシジェンデストロイヤーが…怖いゴジラが…」と説明してたらしいんですが、幼稚園児が分かるわけない。
話のスピードが早い上に登場人物も台詞も多く(よく聞こえないし)、大胆な省略カットも多用されているので映像を追いかけるだけで精いっぱい。映画として真面目に、しっかりと観れるようになれたのは大学入ってからだったな…。
しかし、人間が全く太刀打ち出来ない存在であること、海の中で神秘的に科学的に死んでいくゴジラの姿は痛烈で、その不可思議さ、理解できなさがあるからこそ、当時にウルトラマンガイアやギンガマンを観ても初代ゴジラの印象が全く弱体化しなかったのだなと。
これはレーザーディスクですが、VHSも似たようなパッケージだったはず
何回も繰り返し観ていたのはVSメカゴジラ。レンタル落ちじゃないビデオがあったので、そりゃもう毎日の様にビデオデッキを回してましたよ。この頃は「ロボット、怪獣、ヒーローが出ないモノはクソ」というとんでもない偏屈野郎で。「怪獣と合体ロボが戦う」話はドストライク。家にメカゴジラのフィギュアがあったこともあり、メカゴジラVSタイムロボαとかを妄想しながら遊んでましたね。よく覚えているのは、無音で引きの画で演出されるラドンの登場シーンと、調査隊が岸壁にいる中で海から現れるゴジラのシーン。すげぇ怖い!!!!
「ゴジラ対メカゴジラ」は…とにかく首折りシーンばかり観てましたね(笑)。父が幾度も巻き戻して観てました。メカゴジラへの変身シーンも巻き戻してたかな?
こういった歪んだ英才教育を受けながら自分でもテレビマガジンの特集や図鑑等で自習を進め、小学校入学前には一端のゴジラ少年へ。ウルトラ怪獣やガメラ等についても勉強しましたが、やはり「怪獣王ゴジラ」は別格として認識してました。ヒーローかヒールか?には無頓着でしたかね。
あと特筆したいのはヘドラ。映像は観てなかったんですが、父から「最強の怪獣」として紹介され、どんな怪獣なんだ?どんな戦いなんだ?と必死になって調べてました。実際観てみたらとんでもない映画だったわけですが(笑)。
◼小学生低学年 〜白目からFWまで〜
知識を得れば、映画館で観てみたいと思うのがオタクの常。 2000ミレニアム、メガギラスに行きたい!と懇願するも叶わず。やっと行けたのは小学1年生になってから。2001年冬のこと。そう、「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」。
同時上映は「劇場版 とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険」。ゴジハム君持ってたね。
このGMKは、初の1人映画体験でもありました。よりにもよってこれが初(笑)。
とにかく映画館で観たくて、母と妹が別な映画観てる間に私一人だけゴジラ。やたらリアリティーある映画が始まって戸惑う…というか、必死に食らいついて観てた気が。唯一覚えているのは、最後ゴジラの体をぶち破って潜航艇さつまが出てくるシーン。強烈なあおりで海から出てくるゴジラが非常に印象的でしたよ。
パンフレット買ってもらったんですが、怪獣解説よりもメイキング重視の内容で、なんでキングギドラに人が入ってるんだ?とか思いながら、不思議な本だなと思いながら読んでましたねぇ。
そして機龍2部作。これは父と一緒に行きました。ハム太郎では寝てましたね(笑)。
とんでもなくカッコいいポスター。メカゴジハム君。
「ゴジラ×メカゴジラ」、もう機龍にやられてしまいました。こんなにカッコいいロボット怪獣がいるのかと。間違いなく怪獣なんだけど、外部武装によって醸し出されるミリタリ感が最高なんですよ。あのケーブルとかね!武装一つ一つに漢字の武器名が振られてるのにも燃えた。
何より感動したのは病院を襲うゴジラを超スピードのタックルで吹っ飛ばすシーン!あの一瞬が今作の白眉だと思いますね。スピーディーかつ柔軟な戦闘を行う機龍とゴジラもカッコよい。
これには父も感動したらしく、えらくデカいフィギュアを買って飾ってましたね。
東京SOSの思い出はあんまり無いな…(笑)。アブソリュート・ゼロの代わりに三連メーサーが搭載された、って設定には熱くなりましたが。
SOS版の機龍はバックパック等の紺色がないのでヒロイックさに欠けるのよね
ここら辺で確かスカパーにてゴジラ特集が組まれ、過去のゴジラ作品(エメリッヒ版含め)をバンバン放映していたんですよ。そのCMにて初めて対ヘドラの映像を観た…衝撃でしたね。
落とし穴でヘドロを流し込まれてもがくゴジラ…最強怪獣であるはずのゴジラが蹂躙されるのは、自分の価値観や理想、夢等を全部ぶち壊された様なショックでした。映画を観たら更にショック、というよりわけが分からなかった(笑)。これも高校か大学辺りでようやっと理解できるようになりましたよ。
2004年、ゴジラ最終作と銘打たれた「ゴジラ ファイナルウォーズ」も勿論劇場に観に行きました。この映画が評判悪いってことはTwitterやるまで知りませんでしたよ(笑)。ゴジラ怪獣大集結!大興奮で行きました。CMで観たクモンガ・ジャイアントスイングが好きで好きで、よくマネしてました。
このポスターにワクワクしないわけがない
冒頭で語られる怪獣対人類の歴史、怪獣が世界各地に現れることを報告していく通信士、各都市を蹂躙する怪獣たち、満を持して登場する最強最速の怪獣ゴジラ!!非常に燃えるシーンの連続に手に汗握ってねぇ…。「怪獣総進撃」という前例があるものの、当時は観てなかったし、恐らく観ていたとしても、今作の方が面白い!と言ったでしょうね。
ファイナルウォーズはプロレス的な、ゴジラとあの怪獣が戦ったらどうなる?を短いスパンでドンドン見せていくわけですが、これに小学生の妄想脳は大変影響を受けまして。もう観た後は「俺が考えたファイナルウォーズ」を空想しまくりました。劇中でゴジラは南極から東京を目指すわけですが、北極からは地球の切り札として機龍が出撃し、各怪獣達と戦いながら東京へ突き進む…戦うのはビオランテ、スペースゴジラ、オルガ、メガギラス等、ゴジラと関りがある怪獣達。ジェットジャガーも一緒に戦うとかも考えてたかな(笑)。
ファイナルウォーズ以降、ゴジラ映画はギャレゴジまで作られず…。更に言えばウルトラマンシリーズもメビウスで終わり…怪獣コンテンツ冬の時代がやってくるわけです。巨大特撮はスーパー戦隊のみ…私も特撮よりかはロボットアニメ畑に移行していきました。
◼中学から高校 〜昭和シリーズ掘る〜
この時期ではもう殆どゴジラを観なくなっていて、年1、冬に行事として観る位でした。たまにスカパーでゴジラシリーズがやれば観る、父がDVD引っ張り出して来たら観る…それくらいでした。
その中でも、観ていなかった昭和シリーズをちょいちょい観ていましたね。ぼんやりと…。ここら辺は幼少期よりも記憶がないんですよ(笑)。本当にゴジラ冬の時代だった…。
いや、確かファイナルウォーズの前後辺りに、地元の美術館でゴジラ展がやってたな。劇中使用された模型やスーツが展示されてて、父と一緒に行った思い出があります。
◼大学 〜パシフィック・リム、そしてギャレゴジ〜
大学1年生、2013年。あの、映画史としても、特撮史としてもエポックメーキングとなる映画「パシフィック・リム」が公開されました。勿論劇場で鑑賞。冒頭の出撃シーンで涙を流し、香港決戦では興奮しすぎて死にそうになるなど、それはもう楽しみました。Twitter始めたのもここらからで、特撮史やデルトロを絡めた様々な感想、評論を漁りに漁ってましたなぁ…。
そして、ハリウッド版ゴジラ、ギャレス版ゴジラが公開されたのが2014年。ファイナルウォーズから10年。まさか、またゴジラを映画館で観ることが出来るとは!!人間を皆殺しにする怪獣王ゴジラを楽しみにしていた身としては、あの絶望的な予告に心底ワクワクしましたよ。
「ゴジラ(2014)」、色々言いたいことはあるけど、握りこぶしを作り目をひんむきながら観るという体験をさせてくれたので、自分の中では傑作でした。
— 光光太郎 (@bright_tarou) July 25, 2014
当時こんなこと言ってるけど、相当嬉しかったですよ。観てみたらVSものだったし、ゴジラは結局人間の味方っぽいし、想像とは全然違いましたけど。「タメにタメての熱線」やられたら、そりゃ燃えるに決まってる!!!!!!
7位『GODZILLA』
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 28, 2014
ポイント「タメと熱線」
「我らがゴジラの大復活!!」より「ゴジラ対米国大怪獣!!」という文句がしっくりくる1本。巨大特撮独特の「タメ」演出が素晴らしく、特に放射熱線は心が震えた。日米共に新作が楽しみ!! pic.twitter.com/mzxuhKqIqF
この頃はシリーズ化が明言されていただろうか?モンスターユニバースやキングコング映画が発表されていただろうか?覚えていないが、間違いなく巨大特撮界隈は大いに盛り上がっていた。ウルトラマンギンガも始まったしね。
◼大学 〜シン・ゴジラという現象〜
そして2015年。満を持して 、日本でゴジラを作るぞ!という知らせがやってくる。
マジか!!!!!!!!!!
— 光光太郎 (@bright_tarou) March 31, 2015
"@eigacom: [映画ニュース] 庵野秀明総監督×樋口真嗣監督で「ゴジラ」!強力タッグが実現、過去最大の体長を予定 http://t.co/MeTs0WUkEG #映画 #eiga pic.twitter.com/wJQ0cqYlww"
エヴァ×ゴジラ×進撃の巨人…凄まじいテロップだ…!ワクワクが止まらない!!
— 光光太郎 (@bright_tarou) March 31, 2015
"@Legion_1996: 早速めざましテレビでゴジラ! pic.twitter.com/9NqpEYRUKx"
シン・ゴジラ凄いな…。エンターテイメント映画に徹していない感じが伝わってくるぞ…!
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 9, 2015
この時期の特報を真面目に観るのは映画オタクか特撮オタクしかいないだろうし、この特報の路線はその筋にドンピシャだろうから、いいんじゃないかな…。
ゴジラってなんだ?怪獣ってなんだ?
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 9, 2015
を、最強のオタク達が考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えぬいて産み出した、根源は共通だが全く新しいゴジラ像、ゴジラ映画が観られる予感…!
ここら辺で長めの予告が投下された。
シン・ゴジラ、ここ最近の「邦画クソ」というクソつまらない論争にNOを叩きつけたな。怪獣映画である以上に、一本の「日本の映画」としての豪華さを持っているし、これなら色んな客層を呼べそうだ!!
— 光光太郎 (@bright_tarou) April 13, 2016
シン・ゴジラ、一番嬉しかったのはやっぱり「豪華キャストの超絶的な数」だなぁ。幕の内弁当レベル100みたいな豪華さと量のキャストが集結するぞ!ってことで、怪獣特撮ファンじゃない人を呼び込めるよ!!!
— 光光太郎 (@bright_tarou) April 13, 2016
好き者同士の馴れ合いでなく、圧倒的な力でねじ伏せる傑作を作るんだという意気込み。
とまぁ初報からのツイートを色々漁ったわけですが、実の所ここまで期待一辺倒でない空気もありました。正直手放しでほめられるゴジラ映画って殆どないし…手掛けるのがアルティメットオタクな庵野監督と樋口監督というのもあり、マニア向けで終わるのでは…?との心配も…。
シン・ゴジラ、例え内容が薄っぺらで抽象的だったとしても、大画面で怪獣が観れるだけでもお金を払う価値はありますよ。もしかしたら仮面ライダーとかの予告が観れるかもしれないしね。
— 光光太郎 (@bright_tarou) July 28, 2016
いやぁ不安がってますね…。そして、遂に公開。
「シン・ゴジラ」を観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) July 29, 2016
日本でしか作れない、最高の日本映画としての、最高のゴジラ映画。
シン・ゴジラ、怪獣映画という枠に、日本映画に、日本に、役者に甘えず、それらを信じきって作られた、滅茶苦茶誠実な映画だと思う。
— 光光太郎 (@bright_tarou) July 29, 2016
あまりの面白さ、その衝撃。今ゴジラ映画を作った意義。初回終わった後すぐに次の回のチケットを買ってました。その後は色んな友達と観まくり、1人でも観て、再上映でも観て…合計で8回位は観てるはず。それでも全く飽きないのは、映画鑑賞体験のデザインが余りにも見事だからでしょう。
ゴジラ映画が内容も批評もオタク受けもよかった。何よりも日本のマジョリティの興味を引き面白がらせることが出来た。SNSだけでなくマスコミでも取り上げられ、興行収入が80億円を超え(HEROや海猿よりも上)、日本アカデミー賞では10冠達成。
TVではウルトラマンも列伝枠から外れて単独作のオーブが作られたし、怪獣コンテンツは完全に蘇ったのだ!!!
前ブログで書いたシン・ゴジラ感想記事。長いよ!!
bright-tarou11253350.amebaownd.com
同じく前ブログで書いた、福島での展示会レポート。今では全国巡業してるとか。
◼社会人 〜アニゴジ戦争勃発〜
さて、シン・ゴジラ公開後、今度はゴジラをゴリゴリのSFとして、アニメでやるとの発表が。しかも脚本はあの虚淵玄。まどマギ、鎧武、サイコパス、楽園追放の虚淵玄となれば期待も一入ですよ。
虚淵玄は様々な作品において、ジャンル的お約束事に論理的視点を盛り込んできました。なので虚淵ゴジラは、ゴジラという存在を問い直し再定義化する作品になると予想していましたが、これはほぼその通りだったかと。
アニゴジ、もとい「GODZILLA 怪獣惑星」を観たのは社会人1年目の頃。
「GODZILLA 怪獣惑星」観た!
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 17, 2017
ゴジラとは何なのか?ゴジラを倒すにはどうすればいいのか?そもそもゴジラと戦うとはどういうことなのか?といった思考実験として超面白いけど映画として退屈だなぁ………と思っていたら!思っていたらですよ!!いやぁウロブチやりやがったな!最高です!
「GODZILLA 怪獣惑星」映画としては問題大アリだけど、小説含めてああいった世界観を描いてくれたことを評価しませんか……?
— 光光太郎 (@bright_tarou) November 19, 2017
本当にね…思考実験としてはとてつもない面白さなんですよ。数々の怪獣が出現した怪獣東宝特撮世界を、リアルな視点で語りなおしたらどうなるか?ゴジラや怪獣に負け続けた人類はどうなるのか?何故ゴジラは無敵なのか?正に虚淵節と言える、理屈積み重ね台詞のカタルシスに飲まれる、あの感覚。しかし、映像面でお遊びや革新性がほぼ無いってのが痛すぎるんですよね…。
この後、アニゴジは続編が発表され最終的には三部作となりました。え!?続編あるの!!??ってのをとんでもないネタバレフライヤーで知った方も多いのではないでしょうか。
2作目の決戦機動増殖都市、メカゴジラ編はアニゴジで一番好き。
決戦機動増殖都市、前作より断然好きですね。確かにダサいところもつまんねぇところも依然多いけど、怪獣を扱ったSFとして抜群に面白かった。今作のゴジラを経てのメカゴジラの解釈も素晴らしい。
— 光光太郎 (@bright_tarou) May 18, 2018
前作ではゴジラ抹殺=人の尊厳を奪い返すことだったが、今作ではこの構図が壊され、人であることを捨ててでもゴジラを殺すのか?と問われる。生態系を支配(生物が模倣、順応した?)して地球そのものと化したゴジラを倒すために自己進化を重ね、原形を留めない都市型へと変貌したメカゴジラもまた、その是非を問うている。
シン・ゴジラや東宝特撮の過去作品が「怪獣出現という事象にどう対応するか?」という問題解決型だったのに対し、アニゴジは「怪獣出現によるイデオロギーの変化」を扱っているのだろう。
3作目、最終章でキングギドラ。星を喰うもの。
いやこれは全然ダメですね…。1、2作目の悪点だった「つまらない会話シーン映像」が滅茶苦茶増えた上に「変化に乏しい戦闘シーン」も激増。論理的を超えて観念的になった問答の数々…全く擁護できませんね。明確な良点を挙げるならば、キングギドラの初登場シーンでしょうか。キングギドラが常識外の存在であることをこれ以上ないほどの論理的台詞の応酬と迫りくる「首」で示す…ここはアニゴジでも屈指の名シーンでしょう。あ、あとセックスの直喩もありましたね。最高!
そして当然と言うべきか、興行面では鳴かず飛ばず…。こちらのサイトのデータでは、2作目を合わせても興行収入が5億以下…。元々Netflix資本のアニメ作品として企画されていたものを劇場用にしたらしいので痛手はないのかもしれませんが…。
色々と文句を言ってきましたが、怪獣を巡る思考実験として無類の面白さがあるのは間違いありません。ゴジラ、メカゴジラ、キングギドラそれぞれが「何故強いのか?」という説明も過去作オマージュがふんだんに込められていますしね。
まぁでも前日談小説2冊の方が圧倒的に面白いけどね!!!!!!!
両作ともAmazonレビュー平均点が4.5!!!
東宝特撮映画ユニバース新解釈として、SF短編として、何よりも最強怪獣小説として、無類に面白い!!!!ここで描かれるゴジラはアニゴジ時のゴジラよりかなり小型のはずだが、間違いなく過去最強最悪のゴジラだ。世界各地で怪獣が出現する、ゴジラが神の如く強いなど、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」の小説版と言っても過言ではない!!!
◼現在 〜新たなるゴジラへ〜
さて、長々と振り返ってきましたが、ここで〆にしましょう。
5月31日には「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」が公開。そして2020年には「ゴジラVSコング(仮)」が、2021年以降には日本産ゴジラ作品の公開も仄めかされています。
神格化された初代ゴジラ、キャラクターとしてエンタメに特化していった昭和ゴジラ、進化した特撮技術の粋を見せつけデザインの完成形を示したVSゴジラ、ifを見せていったミレニアムシリーズ、そして新時代を切り開いたハリウッドゴジラ、シンゴジ、アニゴジ。
キャラクター力の高さにより存在や解釈が多様化してきたゴジラは一種のメディアと化していると思います。ゴジラを用いて何を語るか?どんなエンタメを魅せるか?幅があるからこそハリウッドと被ることなく日本独自の色が出せる。ハリウッドがプロレスなら、日本はアニメでイデオロギーだ!残虐だ!絵本だ!小説だ!!
社会人として真っ当に金を貢げるようになった今、ゴジラが復活してくれるのは心の底から嬉しいですよ…!ゴジラの為に金をためろ!残業をしろ!出世しろ!そして湯水の様に金を出せ!!!!!
寛容になれ!!!!!!!!!!!!!!!!
映画:シン・ゴジラ ~超面白い日本映画~
こんにちは。光光太郎です。
5月31日、遂にゴジラ映画最新作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」が公開されます。
これに合わせて!以前のブログで書いた「シン・ゴジラ」の感想記事、クソ長い感想記事をお引越し!!!敢えてほぼ手を加えずに当時の熱量そのまんまで掲載!!!
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ワクワクもんですね。
光光太郎です。
以前私は「シン・ゴジラ」の予告から一つの志が見えると書きました。「日本でしか作れない、最高の映画を作ってやる」という志です。
遂に公開された「シン・ゴジラ」を観た時、その志は確かに存在し、成し遂げられていることを確信しました。復活した日本製ゴジラ映画が、怪獣映画としてだけでなく、日本映画としても無類に面白い…これは間違いなく、2010年代を代表する、日本映画作品になるでしょう。
と言うわけで今回は、
のネタバレ感想を書いていきたいと思います。
- ■あらすじと解説
- ■感想
- ■再構築したゴジラ映画
- ①リアルな映像で日本対ゴジラを見せる
- ②リアルな物語で日本対ゴジラを見せる
- ③絶望を描き切る
- ④ダメな日本と、日本の希望を示しきる
- ■329人の役者魂
- ■オマージュと遊び
- ■欠点
- ■超個人的感想
- ■〆
■あらすじと解説
「ゴジラ FINAL WARS」(2004)以来12年ぶりに東宝が製作したオリジナルの「ゴジラ」映画。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の庵野秀明が総監督・脚本を務め、「のぼうの城」「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の樋口真嗣が監督、同じく「のぼうの城」「進撃の巨人」などで特撮監督を務めた尾上克郎を准監督に迎え、ハリウッド版「GODZILLA」に登場したゴジラを上回る、体長118.5メートルという史上最大のゴジラをフルCGでスクリーンに描き出す。内閣官房副長官・矢口蘭堂を演じる長谷川博己、内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹役の竹野内豊、米国大統領特使カヨコ・アン・パタースン役の石原さとみをメインキャストに、キャストには総勢328人が参加している。(映画.comより引用)
■感想
1954年に公開された「ゴジラ」。特撮映画の金字塔にして、呪いでもある存在です。1作目の公開後、国内外問わず様々なゴジラ映画が作られてきました。しかし、私達受け手にとっても、作り手にとっても、ポップアイコンとなったゴジラのイメージがあるためか、どの作品も「初代ゴジラありき」なものとして映ってしまいます。
これまで日本で作られてきたのは「ゴジラ」の映画。
エメリッヒ監督が作ったのは「ゴジラという生物」の映画。
ギャレス監督が作ったのは「ゴジラという存在」の映画。
ならば庵野総監督達が作ったのは、「ゴジラ映画」の映画であると言えるでしょう。
そもそも、ゴジラ映画とはなんなのか?…ゴジラが登場するものか?着ぐるみやミニチュアで表現されているものか?怪獣同士が戦うものなのか?
「シン・ゴジラ」は、今一度ゴジラ映画というものを0から考え、再構築された映画でした。まるで初代ゴジラが作られた時の様に…。そこで目指されたのは、良いゴジラ映画ではなく、面白い映画でしょう。甘えを捨て去り、徹底的に拘り、最高の日本映画を作る。それが、「シン・ゴジラ」に貫かれていた、とても太い軸です。
■再構築したゴジラ映画
「シン・ゴジラ」で再構築されたゴジラ映画…それは「ゴジラに日本が立ち向かう姿を、その時代のリアルで描き、絶望と希望をエンターテイメントで示しきる」ことだと思います。次の4つの特徴から、それが分かります。
①リアルな映像で日本対ゴジラを見せる
「シン・ゴジラ」でのゴジラは、CGです。また、空撮された映像に合わせて、戦闘ヘリや戦車、電車、建物など、様々なモノがCGで描かれていました。これまでの日本ゴジラ作品は「ミニチュア特撮、着ぐるみ特撮の王道」という印象でしたので、この一報を聞いたときは衝撃でした。ハリウッドの大作作品と比較すれば、予算もスケジュールも微々たるものであるのは、「シン・ゴジラ」が日本映画である以上明白です。
しかし、それでもCGを選んだ…それも、特撮を愛してやまない庵野総監督と樋口監督によってです。それは「ゴジラ映画をリアルに面白く描くには、今ならばCGが最適だ」と判断したからでしょう。ミニチュアや着ぐるみで作るからゴジラ映画なんじゃない、ゴジラという虚構を魅せるのに最適な技術を使うのが、ゴジラ映画なんだと。
これは、特撮が「ゲテモノ」と評されていた時代に、初代ゴジラを作ったクリエイター達の「怪獣が東京を破壊する姿をリアルに描くには、どうすればいいか?」という思考に敬意を払った、素晴らしいモノづくり精神であると思います。
断言します。この選択は間違っていなかったと。フルCGで描かれたゴジラと、空撮などによる実写映像、そして所々でミニチュアを使用した倒壊シーンなどが組み合わされた映像は、ミニチュアや着ぐるみ特撮では不可能な表現となっていて、今までに観たことが無い、リアルなゴジラ映画を作っていました。そんな本作の映像の魅力は、密度と分かりやすさ、そしてゴジラにあると言えます。
「シン・ゴジラ」では、とにかく映像の密度が凄まじいんですよ。例えばゴジラとの戦闘シーンでは、空撮の映像が多用されています。実際の過密都市東京を撮影した映像なので、情報量もリアルさも段違いでした。そんな「現実の東京」を舞台にして繰り広げられるゴジラ対自衛隊の戦いは、正に現実そのもの。銃撃や砲撃の破壊力も細かく表現されていて、これもまた密度が高い。私はこの映画で初めて、爆撃機の恐ろしさを痛感しました…。
被害を受ける街や建物も「そう壊れるだろう」という描き方になっており、震災の記憶も新しい今に見ると、かなりキツいです。船舶が川にひしめき押し出される様子などは、津波の映像そのものでした。終盤での東京大破壊シーンの迫力と惨状の表現には絶句するのみでした。ヤシオリ作戦におけるビル倒壊描写も、CGだからこそ出来た超絶密度の映像であると言えるでしょう。
ここまで情報過多の密度にした理由は、現実を描き切るためだと思います。ゴジラという存在は嘘でも、ゴジラによって引き起こされる被害や事象は現実のものとして表現されていました。近年、大規模な震災を重ねて経験した今だからこそ、街が壊れるという姿をエンターテイメントの中で逃げずに、現実として描くことが必要だったのだと思います。
映画の内容に合わせて整理され意味づけされたフィクション映像ではなく、私たちの目が普段処理している膨大な視覚情報をそのまま映像にしているような、そんな印象を受けました。
この様な情報過多な映像ではありますが、分かりやすく楽しみやすい構図作りによって、煩雑な印象はありませんでした。インタビューを読むと、庵野総監督はピクセル単位で構図を指定していたらしく、画作りへの拘りは推して知るべきでしょう。
なぜ密度の高い、情報量過多な映像にも関わらず分かりやすいのか…それは位置関係を把握しやすく、広い視野で見る構図になっていたからでしょう。ゴジラとヘリが相対するシーン、戦車がゴジラに砲撃する場面を超俯瞰で映すシーン等が顕著ですね。
画面の端から端まで使った構図であるにも関わらず、砲撃やミサイル等の軌跡によって、視線の誘導が巧みに行われていました。激しさやドラマチックなカメラワーク、構図ではなく、ドキュメンタリーやニュース映像の様に淡々と事象を映す撮影になっていたことも、分かりやすさの一因でしょう。
高密度の映像と分かりやすい構図作りによって、あり得る現実を直視させること。これがCGと実写のハイブリット映像の根っこにある指針だとするならば、そこへ全くの嘘であるゴジラを現実として描き、かつ、嘘としても描くこと…。この矛盾する2つの要素に、今回のCGゴジラは挑戦していたと思います。
まずデザインからして、今回のゴジラはかなり異様です。細部はこれまでのゴジラと全く異なるのに、全体のフォルムで見るとゴジラに見えるんですよね。フォルムそのものが異なっていたハリウッドのゴジラ2体とは異なるアプローチで作られた、新しいゴジラです。
ケロイドの様にも、マグマの様にも、筋肉の様にもみえる赤い皮膚…むき出しの歯…瞼の無い鋭い眼…異様に発達した足と異様に小さい腕…巨大すぎる尻尾…事前に明らかになった姿から初代ゴジラや大怪獣総攻撃のゴジラを思い起こさせますが、その2体とは異なり「こいつは本当に生物なのか?」と疑問を抱くほど、無機質な印象も受けます。しかし、CGで作られているはずの体には、着ぐるみやミニチュアが持つ実在感がありました。フィクションのアイデアを現実へ落とし込んだ雛形模型を準備して、そこからCGでリアルに描いているんですね。
一見回りくどい手法ですが、これによって生物らしいゴジラではなく、現実にいそうな怪獣として、また、嘘である特撮怪獣としてのゴジラになっていました。デザインの時点で現実と嘘が混在していたわけですね。
そして劇中でその姿を披露するのかと思いきや…なんと陸上でのたうち回る超気持ち悪い黄色のゴジラが出現!血らしきものを吹き出しながら、むき出しの大きい目をぎょろつかせ、大地に身をこすりつけながら街を蹂躙するその姿は、痛々しくとも必死に生きようとする生物にも、文明を否定する悪夢的存在にも見えます。
ただまぁ、正直、初登場した時はあまりの衝撃に爆笑してしまいました。その後ゴジラは進化を続けていき、事前告知の様な姿へと変わっていきます。
今作では、ゴジラがどんな生物でありどこが弱点なのかを、少ない手がかりを基に偏屈オタク軍団が解析を試みるシーンが無類の面白さになっています。平成ガメラシリーズ、特に2で顕著だった「怪獣を科学的に分析していく」プロセスの面白さ、カタルシスに満ちているわけですが、これによってゴジラと言う嘘が、現実味を帯びた存在、認識できる存在へと徐々に変化していくんですね。同時に、ゴジラにとってお馴染みの「放射能をばらまく」という特徴を始めとした怪獣王らしいスペックが現実の中に現れるという恐ろしさも、より一層際立っていました。
しかしいくらリアリティを持ってゴジラが分析され正体が明かされていっても、それはあくまでも物語上の話であり、映像で映し出される姿は嘘そのもの。現実の街に質感を伴った嘘がいる…という、奇妙な感覚を抱かせる映像でした。怪獣映画に限らず、CGや模型で描かれた空想上の物体が現実の街並みに登場するというのは、もう見慣れ過ぎた映像ですが、現実に嘘がストンといる不思議さ、恐ろしさを改めて味わえる映像だったんです。
嘘なのか現実なのか、判断が曖昧になる中で容赦なく現実の街並みが、ゴジラに壊されていく…建物単位ではなく街単位で燃えていく景色…。しかし、この感覚は誰しもが、近年味わったことのあるものだと思います。震災や痛ましい事件の報道映像を見た時の、非日常が一瞬で日常を飲みこむ様を目の当たりにしたあの感覚に「シン・ゴジラ」で得られる感覚は非常に良く似ています。この感覚を抱かせんが為に、病的なまでのリアルさへの拘りと、そこへ嘘か現実か測りかねるゴジラを放り込んでいるのでしょう。
ゴジラとの戦いがCGで描かれたことによって、日本人にとって身近な光景を、ゴジラと言う存在が蹂躙する映像が出来上がっていました。ミニチュアや着ぐるみと言った「怪獣特撮の王道」ではなくCGを選んだことにより、ド迫力な映像は勿論ですが、ゴジラが街に現れると言ったお馴染みの映像へ、何層にも重なった意味を持たせていたんですね。この時代にゴジラを復活させること…それを考え抜かれて作られた作品であることが、映像を見るだけでも伝わってきます。
②リアルな物語で日本対ゴジラを見せる
①では映像が如何にリアルかについて触れましたが、「シン・ゴジラ」では政治家を中心にした作劇と、リアリズムを追求した演出によって、リアルな日本の物語になっていました。
今作で主人公となるのは、長谷川博己演じる若き内閣官房副長官、矢口です。庵野総監督達による綿密な取材によって収集された政府周辺の情報によって、政治家を中心にした「ゴジラが現れた時、政府はどう動くか?」という作劇が作り上げられていました。矢口以外の主要登場人物も殆どが役所の人間であり、徹底して行政側の視点で描かれています。
そして今作の作劇における最大の特徴は、ドラマチックな物語ではなく、連続した事態のみを描いたドキュメンタリーのような作劇になっている点でしょう。ゴジラと戦うだけでなく、ゴジラを政府がどう認識するのか、どう発表するのか、どうやって自衛隊出動の理屈を作るのか、どう避難指示を出すのか…そもそもそれらを行うためには何が必要なのか…ゴジラ映画を問わず、日本の対応というものをここまでのディティールで描いた作品は、そう多くないでしょう。
この様な「怪獣という未知の危機が現れた時、日本はどう動くのか?」をシミュレートした映画には1984年版ゴジラや平成ガメラ等がありました。それらの作品群と比べると「シン・ゴジラ」は、一般人の視点を物語に入れていないため、表面的な感情ドラマ、人間関係ドラマが削除されており、最もドキュメンタリックな怪獣映画になっています。ゴジラという嘘以外は、全部本物にしてやる!という気概を感じますね。
怪獣映画と言うのはどこか観念的な話が多くて眠くなるな…と心のどこかで感じていた私にとって、この路線はとてもありがたかったですよ…!ただリアリティを突き詰めた結果、非常に尖った爆笑ブラックコメディにもなっていましたね。日本ではこういった「体制を笑う」コメディは中々ないので、嬉しくもありましたが。
そして、庵野総監督が「つまらない部分もそのまんまに描く」と発言するように「前例の無い事態にはめっぽう弱い」「なんでも会議を通さないといけない」「法律が無いと動けない」といった、行政におけるいかにも日本的なシステムの不自由さもそのまんまに描かれていました。
これによって「見当はずれな上に遅い政府の初動」「避難指示すら出せない東京都」といった、物語上のサスペンスが生まれています。同時に、そんな不自由な日本の中で現実的な手段を用いて、「仕事」として黙々とゴジラに立ち向かっていく人たちのドラマを、真正面から描くことにも繋がっているんですね。SFメカも超天才博士もオキシジェンデストロイヤーも他の怪獣もいない、私たちが普段生きているこの平凡な日本がどうやってゴジラ出現に対応するのかを逃げずに描いてくれます。
この映画の影響大きいよね
しかし、こういったリアルな作劇が行われる時は、得てしてその実態を知らないと何が何だか分からないお話になってしまうことが多いです。専門用語だらけの台詞に、手順の分からない仕事を延々見せられる映画を思い浮かべるだけで、眠気が襲ってきます…。
「シン・ゴジラ」でも、台詞は長ったらしい専門用語だらけで法律や政治の話が多く、科学の深い話題もてんこ盛りな挙句に登場人物は全員超早口で喋るのですが、全く眠くならないんですよ。理解できない話をされても、何をどうしようとしているかが、演出によって分かる様に演出されているんですね。そもそも、全ての台詞の意味を理解させるテンポにせず、その人が話していることはこんな内容だろうなと、語句の意味ではなく話し方で意味を理解させる様になっていました。
その上、その場を観たことない人にも「その場はこうなっているんだろうな」と思わせてくれるんですね。私は政府での話し合いも自衛隊のやり取りも全く知らないですが、日本に根付いた価値観の中で行政のトップに上り詰めた人たちは、こういう話し方や話し合いをするだろう、これが現実なのだろうと、スッと受け止めることができたんです。つまり「シン・ゴジラ」では、現実を知らない人にも現実を想起させる工夫がなされているんですね。役所ではこう使われてそうだなぁという小道具使いが徹底されていることも、その一因でしょう。
ドキュメンタリーの様にリアルな政府のゴジラ対応を描きながら、政府の実態を知らない私達にも「現実っぽい!」と思わせてくれるディティールの数々によって、私たちは見たことも聞いたことも無いはずの「日本対ゴジラ」を、現実として受け止めることができたんですね。
③絶望を描き切る
ドキュメンタリーの様に現実を切り取った映画だからこそ、叩きつけられる絶望はより大きなものになります。「シン・ゴジラ」では、ゴジラによる絶望と、合理主義社会による絶望とが、一切の甘えなく描かれていました。
前述した通り、ゴジラは現実の街を容赦なく蹂躙していきます。第2形体時は全高が低かったこともあり、圧倒的な「何か」「災害」によって街と人が襲われていく様子がまじまじと映し出されます。マンションが襲撃されるシーンでは逃げ遅れた人が巻き込まれる姿をしっかりと映していましたし、破壊後に映される「靴」は、命あるものが消えたことを、嫌が応にも意識させます。終盤で死者を写真付きで報道するニュース映像でも、同じ嫌さがありました。そして長回しでの車吹き飛ばし前進によって、理解できない脅威が文明を破壊していく様を、逃げ場無く見せつけられます。
ゴジラの絶望に絶句するのは、何と言っても夜のシーン。暗闇に赤い肌を燃やしながら進む姿は、理不尽な暴力の権化にも、人間社会を憎むドス黒い存在にも見えます。そして米軍の攻撃によって触発されたゴジラは、背びれを紫色に発光させ、異形な口をあらわにして黒煙を放出。黒煙が街中に広まったのちに灼熱の熱線を放ち、街を焼き尽くす…かと思いきや、熱線は見る見るうちに収束して紫の放射熱線となり、遥か上空にいる米軍爆撃機を撃墜します。その後も続く米軍の攻撃ですが、なんとゴジラは背びれから複数の熱線を放出し、爆撃弾ごと米軍爆撃機を撃墜し、そのまま口からの放射熱線で東京を破壊しつくします。
放射熱線の前座に過ぎない熱線で東京の大地はマグマと化し、街並は燃え、東京駅周辺は放射能で汚染されてしまう…地獄絵図です。米軍の爆撃によって焦土と化した1945年の東京や、近年の地震災害、原発被害をどうしても思い起こさせる惨劇。第3形態の時に、逃げ遅れた老人2人に構わず攻撃を仕掛けていたら…等と考えてももう遅く、私たちは、起こってしまった状況をただただ観ていることしかできませんでした…。
こういった直接的な被害だけでなく、矢口をリーダーとする巨大不明生物特設災害対策本部が、ゴジラの人知を超えた能力を明らかにしていく過程でも、驚異の生物として絶望を与えていきます。「シン・ゴジラ」のゴジラは、真っ当な理屈でも、力でも、その存在全てで登場人物にも観客にも、容赦のない絶望を叩きつけるんですね。
合理主義が世界を滅ぼす
しかし、そんなゴジラ以上に私達を絶望の底に叩き落とすのは、他ならない人類、合理主義で人類全体を考える西側諸国でした。他大陸への被害を防ぎ、アメリカの情報秘匿を隠すため、ゴジラに対しての熱核攻撃が国連で決定されます。確かに、ゴジラと言う地球規模の脅威を完全に抹殺するには、熱核攻撃によって焼き尽くす方法が確実かもしれません。
この条件を飲めば、日本は世界各国から復興の援助を得ることが出来るようにもなっていました。合理的に考えれば、国連、アメリカの案を受託することが正しい選択でしょう。が、核を使うということは、ゴジラによる被害以上に東京を壊滅させることになり、日本の中心地へ長らく残り続ける放射能をばらまくことになります。何より、今一度、日本に原爆を落とすという事実そのものを、決して受け入れることは出来ません。しかし、熱核攻撃を使えば、ゴジラを消滅させる可能性は高くなる…。
合理的な考えによって叩きつけられる「熱核攻撃」という選択と、それをどうしても認められない日本人としてのジレンマ。攻撃のカウントダウンが進む中、どうしようもできない気持ちが渦巻くこの状況は、ゴジラ以上に切迫した絶望を感じさせます…。
街を破壊するゴジラと、合理主義で切り捨てを要求する世界という、物質面と精神面でどうしようもない危機を叩きつけてくる「シン・ゴジラ」。こんな状況に対して、現実世界の延長線上である「シン・ゴジラ」の日本は、どこまでも日本らしい方法で立ち向かっていきます。
④ダメな日本と、日本の希望を示しきる
前述した通り、今作では日本的システム、日本的考え方のダメダメさが痛烈なブラックコメディのように描かれていました。実際、頑固過ぎて柔軟に動きづらい体制のせいでゴジラの被害が大きく広がってしまったことは否めません。しかし、初動に当たっていた閣僚の方々は無能だったのではなく、日本と言う存在を存続させるために、日本のシステムの中で最善を尽くしてきた人達として描かれていたように思えます。話し合いの中でも議論が止まることは殆どありませんでしたしね。
ただ、だからこそどうしようもなくダメだとも言えるのですが…。政府陣営だけでなく、避難誘導が出ても携帯で撮影をしまくったり、すぐにSNSやネットに書きこんだり、被害を出したゴジラを守れ!と深夜に官邸へ攻め寄ったりする民間人がいたりと、現実の日本にあるダメダメさがありありと描かれていました。(官邸前で抗議を続ける声を無視して寝る役人たちの姿も、かなりブラックコメディ色が強めでした)
そんな日本の「リアルな」ダメさ加減が次々と映し出されるのに対して、日本の日本らしい良さも示されていました。それは「仕事を黙々とこなすこと」と「人徳と協力」です。
矢口率いる巨災対のメンバーや自衛隊等、劇中の人物達は自らの仕事として割り当てられたこと、やるべきことを黙々とこなしていきます。何か個人的な思想があるとかではなく、国民のために働くことが仕事だから、そのために一途に頑張る…私たちの考え方の根っこには、仕事に務めるという意識が必ずあるはずです。
これは社畜思想として悲観されがちではありますが、どんな絶望的な状況の中でも決して諦めず、コツコツと仕事をする姿には、胸が熱くなります。現実の問題は、大天才1人によって解決されるものではなく、その場にいる1人1人が仕事をすることで解決されていくのだということが分かります。
そんな対応も報われず、ゴジラと熱核攻撃による危機にさらされる中で、日本はそのどちらへも立ち向かっていくことになります。ボロボロになった日本に示される希望は、今まで日本が大切にしていた考え方である「人徳と協力」でした。各所へ頭を下げ、コネと繋がりで協力を求めていく様子は、どこまでも日本らしいものです。そして、東京で核攻撃は使わせない!という気持ちと仕事を通して繋がっていく役所と民間企業、そして日本を信じて協力してくれる米軍と世界各国の研究機関…日本の、日本らしいダメさを散々観た後に、日本がこれまで大事にしていた日本らしい精神によって危機に立ち向かっていく展開は、同じ日本人として感動を禁じ得ませんでした…。
日本には確かにダメなところがありますが、でも、でも、それも日本なんですよね。そんな「ダメな日本」だからこそ、日本の良い点が育っていったんだなと信じられる物語でした。ここまでの段階で情報量とスピード感によって私達観客もボロボロにされているので、登場人物達とシンクロしてしまい、日本の希望の光が胸にくるのかもしれません…。
振り返ると「シン・ゴジラ」は、リアルな映像で日本対ゴジラを見せること、リアルな物語で日本対ゴジラを見せること、絶望を描き切ること、ダメな日本と、日本の希望を示しきることによって、「ゴジラに日本が立ち向かう姿を、その時代のリアルで描き、絶望と希望をエンターテイメントで示しきる」ことを行っていたんですね。
そして、この再構築されたゴジラ映画に対して全力で立ち向かった役者陣の好演無くしては、「シン・ゴジラ」は成立しなかったでしょう。
■329人の役者魂
今作では総勢328人+1人という、大勢の役者さんが参加しています。それも、1人1人が主役をはれるような方ばかりであり、超豪華な日本役者映画にもなっていました。
ところがどっこい、「シン・ゴジラ」では私たちが普段触れるであろう演技や演出とは異なる方向へ、全力で向かっていました。箇条書きにするだけでも、
・全員が超早口&専門用語台詞ばかり
・超ドアップで顔を映す(化粧した顔とかではなく、毛穴まで見えるようなリアルな顔)
・身振り手振りといった動きのある芝居はほぼ無し
・身の上を語るシーンはほぼ無し
・喋らずに演技だけで表現するシーンはほぼ無し
・大体のシーンが話し合いのみ
・主役級以外は登場時間が5秒くらいしかない
と…感情の起伏をゆっくり楽しむとか、余韻を残すことを全く考えていないんじゃないかと思えるような描写の数々です。これらを考えても、今作において作為的なドラマチックさが排除されていることがよく分かります。
「シン・ゴジラ」で目指された演技、役者の演出とは、ここでもやはり、リアルさなのでしょう。そのリアルさは情緒的な台詞ではなく、それぞれの役者の顔と、これまでの経歴、短いながらも全力を感じさせる迫真の顔&台詞演技によって表現されていました。つまり、役者個人の人生と、役者としての技量が合わさったものが、今作での登場人物達なんですね。
前田敦子に至っては「世間が前田敦子に対して抱いているイメージ」を最大限活かし、茶化したような人物として、短い時間ながら存在感を発揮していましたし、平泉成さんは正しく平泉成であり、また、平泉成という役者が演じてきた役そのものの様な人物として描かれていました。
シンプルに言うと、登場人物の顔を見た途端に「この人物はこういう奴だろう」「こいつは今こう考えている」と分かる様な演技と演出になっているんです。だからこそ、5秒も出ていない登場人物達1人1人の人生が見事に切り抜かれていて、それらが早いスピード感で積み重ねられていくことにより、フィクション物語と言うよりも現実物語が構築されていきます。「シン・ゴジラ」は、328+1人分の役者魂が集結した、骨太な日本役者映画だと言えるでしょう。真似したくなる台詞が多いことも特徴的ですね。
…ところで、先ほどから+1人という表記をしていますが、これは今作のゴジラのモーションキャプチャーを務めた方の事を指します。それが何と、野村萬斎!ゴジラにも演者の魂が入っていたのですね…着ぐるみ特撮への敬意を感じます。もしや、第2形態などのモーションキャプチャー等も務めているのでしょうか…メイキングが楽しみですね。
ここまで誠実な作り手として庵野総監督達の手腕を評してきましたが、忘れてはいけないのは彼らが生粋の「オタク」であるということです。それも、分かっている上にどこまでも拘るオタクです。
■オマージュと遊び
「シン・ゴジラ」では、特撮作品等に対する溢れんばかりの愛がオマージュという形でも表出していました。私が気付いたものを、次に箇条書きにしていきます。
・冒頭、わざわざ昔の東宝ロゴを入れる
・冒頭からタイトルシーンまでの音楽の流れが初代ゴジラと同じ
・ファーストシーンが初代ゴジラと同じ構図
・対戦ヘリが登場するシーンでかかる音楽のイントロがウルトラマンにそっくり
・モノラルだろうがぶち込まれる伊福部昭音楽
・ゴジラの造形は初代ゴジラの要素がふんだんに盛り込まれている
・背びれの放射熱線がどう見てもイデオン
・ゴジラとの決戦が、初代と対照的になっている
・薬は飲む方が効く
・散々壊されてきた電車や建物でゴジラに立ち向かう様子
・音楽でゴジラ史を遡るエンドクレジット
恐らく、これ以上にオマージュは存在するでしょう。特撮作品に限らずアニメや日本映画にもオマージュ元がありそうです。ただ、その描き方があまりにも愛に溢れすぎていて、気付いたときに笑ってしまうのですが(笑)。
さらにオマージュだけでなく、遊びに見えるような演出も多かったんです。しかし、どれもこれも無意味なものではなく、意味のある、作品になくてはならない遊びだったと言えます。
・頻繁に流れるエヴァの音楽
・緊急記者会見でもアニメを流す12チャンネル
・ゴジラと言う意味の手話
・前半におけるコメディの様な編集
・カップ麺
本当はもっともっと遊びの部分があったと思うのですが、とりあえず思い出せる範囲で…。
再構築したゴジラ映画、329人の役者魂、オマージュと遊び…これらが混然一体となり、どれ1つとしてかけても、「シン・ゴジラ」という作品は成り立たなかったでしょう。
オタク中のオタクである庵野総監督達ですが、今作は決してオタクのおもちゃになっているわけではないのです。固定観念に囚われることなく、ゴジラ映画を今一度作り上げるという拘り、ヒットする日本映画を作るという気概に満ちていました。「シン・ゴジラ」は、日本映画史で語り継がれる傑作となると思います。
ありがとう…本当にありがとう!「シン・ゴジラ」スタッフの方々!!!!
■欠点
ここまでは絶賛一辺倒でしたが、今作は少なくない、そして小さくも無い欠点がある作品です。どこをどう見ても普通の映画ではないので当たり前なんですが…。
①安いCG
今作におけるCG描写は、かなり高いレベルのモノであったと思います。それはゴジラや戦車、ヘリ、終盤の建物のCGを見れば納得の部分でしょう。しかし、時間が無かったのか、明らかに「安い」と感じてしまう部分もありました。
冒頭でのトンネル崩壊において落ちてくる瓦礫やゴジラの血は、がっかりするほど安さを感じるものでした。しかもかなり序盤の方に見せられるので、今作のCG技術を疑うような空気を作ってしまったことは否めません。その後に現れるゴジラのしっぽのCGも、確かに気持ち悪い嘘としての表現と言えば納得も出来ますが、パッと見の質感の安っぽさにばかり目が行ってしまいます。
その後も無人新幹線爆弾、無人在来線爆弾等で若干の安さを感じますが、ここでは画の迫力とアイデアそのものが素晴らしいのであまり気にならないんですね。やはり冒頭も冒頭であのレベルのCGを見せてしまったことが、作品全体のCGイメージを落とした原因だと言えるでしょう。
②すべてを台詞で説明
前述した通り、今作ではとてつもない量の台詞があり、ゴジラ登場時以外は常に誰かが喋っていると言っても過言ではありません。そういった作劇として素晴らしいモノになっていることは確かなのですが、映像で見せて欲しい部分まで全て説明台詞で済まされてしまうため、物語上の燃え上がりどころにおける「タメ」が不足しているように感じます。また、物語の核心や良い所も全て台詞で言ってしまう上に、やたらとハキハキ強調して喋る部分もあり、アニメっぽく見えてしまう箇所も多いです。日常生活で「福音」とか「覇道」とかは使わないと思うんですよ…。
画で見せるようなシーンがあると途端にフィクション味が増してしまう危険はありますが、せめて終盤に向けた準備描写では、民間企業側が役所と協力する様子、米軍隊員からの協力の申し入れ等を描いて欲しかったところです。
③音楽がオマージュ多し
今作では、ゴジラ音楽を作った伊福部昭の楽曲や、エヴァンゲリオンに似た音楽など、他作品を思い起こさせる音楽が多く使用されています。そのため、劇中何度も元になったものをイメージする時間が発生してしまい、「シン・ゴジラ」を観ているんだという感覚をブツ切りにされてしまうんですね。伊福部昭音楽に至ってはモノラルらしいので、かかった瞬間違和感が…。確かにオマージュ音楽等は燃えるのですが、それはあくまでも元作品ありきなものです。「シン・ゴジラ」では「シン・ゴジラ」の音楽で全編通してもらい、新時代のゴジラ映画体験を提供して欲しかったですね。
■超個人的感想
面白かった点
日本の役所が使用するパソコンは全て厚めのWindowsでした。それに対してフランスの研究機関はMacintoshを使用しています。こういった小道具使いで色々な違いを表現されると、何故だか無性に楽しくなるんですよね(笑)。因みに高橋一生演じるオタクもちらっとMacintoshを使っていましたが、私物なのでしょうか…。
②真似したくなる台詞の多さ
・え!蒲田に!?
・え、動くの?
・仕事ですから
・これはあまりにも酷すぎます!
・首を斜めに降らない
・骨太を頼むよ
声に出していいたい日本語ですよねぇ…。あと、無人在来線爆弾が並んで突撃していく様子が、スーパー戦隊シリーズでのメカ集合の構図に似ていたのも面白い部分でした。
残念な点
①英語の使い分け
劇中で石原さとみが英語を使うシーンとそうでないシーンがあるのですが、あれはどう使い分けられているのか…。鑑賞中ずっとノイズになっていました。英語自体はそんなに気になりませんでしたが。
②折り紙の意味
牧元教授が残した紙を折ることで、ゴジラに秘められた秘密を解き明かすことが出来たのですが、何故解き明かせたのかが全く分かりませんでした…。分析の過程をすっ飛ばして結論が述べられるので、折り紙になんの意味があるのかが謎なんですよね…。立体にすることで何かが分かるのでしょうが、何が分かるのか…。
■〆
何度も言うように、「シン・ゴジラ」は日本史に残る映画になるはずです。今作以降で日本の物語作りに「日本を描くこと」という革新が起こるかもしれません。何より、今、劇場に日本のゴジラがかかっているという事実が、ただただ嬉しい…。もう3回観ていますが、観られるだけ劇場で観ていきたいと思います。
日本映画史の転換点、最高のゴジラ映画を、今是非劇場でご覧ください!
映画:ブラックパンサー ~悩んで悩んで、変身!~
こんにちは。光光太郎です。
「アベンジャーズ/エンドゲーム」3回観ましたが、その度に見返したいと思う作品が異なりますね。てなもんで今回は劇場鑑賞時以来の鑑賞となった
の感想をサクッと書きたい。エンドゲームの後にTVで観て、評価がかなり上がった。
※この記事にはエンドゲームのネタバレが含まれているので、未見の人は注意!!!
■感想ツイート
ブラックパンサー吹替で観てるけど、最高だな……エンドゲームを経て評価が爆上がりしている。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ブラックパンサー、TVで観るとCG感が薄れるな。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ブラックパンサー、吹替も素晴らしいんだけど、やはり原語で訛りを堪能すべき映画だわな。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ブラックパンサー吹替、滅茶苦茶面白かった。公開時と比べて「どう見ればいいか?」が分かってたし「ヴィヴラニウム持ちすぎズルくね?」ってやっかみも無くなったし。なによりもインフィニティウォーやエンドゲームへ連なるテーマを素直に受け止められた。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ブラックパンサー、面白かったんだけどやっぱり韓国編が面白すぎるんだよな……ワカンダ決戦は思想対決であって、アクションでの新鮮な見せ場は意外と少ない。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ガジェット紹介の楽しさや「変身!」のカタルシスを上回る感動が、終盤はあまりない。少なくとも、お話と映像がリンクしての見せ場はかなり目減りする。でもテーマは好きだしキルモンガーがカッコよすぎるのでよし!
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
■劇場鑑賞時のツイート
この時は「シェイプオブウォーター」→「ブラックパンサー」→「15時17分、パリ行き」の3本立てだったなぁ…。
「ブラックパンサー」
— 光光太郎 (@bright_tarou) March 1, 2018
頭のいい人が会議室で話し合って作った非常にお行儀のいい映画って印象。
「ブラックパンサー」
— 光光太郎 (@bright_tarou) March 1, 2018
基本的に会話劇や演説劇なので、物語と映像が結び付くカタルシスに乏しい。なのでやはり綺麗事が先行してしまう。これが本当にクリードを撮った人の演出なのか……。
■初の黒人ヒーロー、ブラックパンサー
マーベルコミックにブラックパンサーが登場したのは1966年。公民権運動の高まりに呼応するかの様に現れた、初のアフリカ系、黒人ヒーローだ。ファンタスティック・フォーの面々を1人で圧倒する戦闘力と知略を持つ、伝統と先進技術が融合した国家ワカンダの国王でもある。
彼の人気を皮切りにしてファルコンやルーク・ケイジといった、非白人系ヒーロー達が生まれていく。現マーベルコミックの多種多様な人種構成の発端は、ブラックパンサーであると言える。
ここら辺はHuluの「アメコミヒーロー大全」に詳しいので、是非観て欲しい。ブラックパンサーだけでなく、様々なヒーロー達の誕生と人気の変遷をアメリカ現代史と紐づけて語られていく傑作ドキュメンタリーだ。
黒人の方々を勇気づけてきたヒーロー、ブラックパンサーは昨年MCUに参上した。
しかしそこで描かれたのは差別に立ち向かうヒーローではなく、差別を無視してきた歴史に直面し苦悩する王の物語だった。ここにこそ、今作がブラックスプロイテーション映画を超えて、全世界で指示された要因があると思う。
■自国を守るか?他国を救うか?
ワカンダは地球最強の鉱石ヴィヴラニウムの鉱脈を有した超技術大国となっているが、他者による力の悪用を恐れて技術を秘匿し、対外的には農耕国家として振舞っている。ティチャラもまた国を守るため伝統に倣って秘匿主義を貫き、ワカンダの力を他国や難民の為に、他者の為に使おうとはしていません。
そこに異を唱えるのが、今作のヴィランであるキルモンガー。彼はアフリカ系や移民たち、今現在虐げられている人々を救うための侵略戦争にこそワカンダの力を使うべきだと主張する。侵略という手段を取っているのは全く賛同できませんが「他者を救う力があるのなら行使すべき」という主張には頷けます。また、彼の父親はワカンダの秘密を守るための犠牲として殺されていましたが、ワカンダへの復讐よりも「自分と同じ境遇にある者を救う」ことを選択をしています。キルモンガーは単に国を乗っ取る悪役ではなく、王としてティチャラと相対するヴィランなわけです。
伝統によって虐げられた存在、ワカンダが犯してきた罪の権化であるキルモンガー。彼は最終的にティチャラに敗れますが、その精神性は引き継がれ、ワカンダは国粋主義を辞めて国際社会に貢献することを決めます。
見て見ぬふりを辞め、他国と協調し貢献していく…インフィニティウォーの前作がブラックパンサーである理由がよく分かりますね。行き過ぎたナショナリズムを今のアメリカで描くという意義も凄いし、それを黒人国家で表現するのもチャレンジング。肌の色も人種も関係なく、思想による分断を行わず、力を提供し合って協力していく…エンドゲームを経たからこそ、このテーマの力強さが分かる様になりました。
ワカンダの協力がなければインフィニティウォーでの抵抗も出来なかった…
■面白さの7割を担う韓国シーケンス
まぁ難しい話はともかく、韓国までのシーン!韓国までのシーンが最高に面白いんですよ!ぶっちゃけここ以降、映像的に感動した場面はない!!(ツイートでも言った通り、思想対決になるので…それでも映像と思想とをリンクさせてほしかった…)
まずは準備。新スーツのお披露目が素晴らしいのは勿論のこと、あのナノテクスニーカーのセンスオブワンダーよ!ナノテクによる3D通信にもワクワク。ブラックパンサーは本当にガジェット周りが魅力的です。
んで、韓国でのチェイスシーン。正しく「変身!」というに相応しい、走りながらのスーツ装着からのバク転&着地のカッコよさ!!ここはストーリーも映像も動き始める場面なので、映画的高揚感も堪らないのです。また、妹であるシュリが遠隔操縦するレクサス(車もカッコよければ遠隔操縦装置も最高)の上に着地するので、まるでサイドキックとの共闘の様に見えるのも熱い。もうこのシーンを観れただけでもブラックパンサーは最高なのです。
そこからのカーチェイスシーンは韓国の夜景の美しさと車の美しさが相まって、思わず見惚れてしまう。ドレスを傍目かせて槍を構えるオコエに惚れろ!
サントラもいいねぇ
■不満点
基本的に楽しく観れた再鑑賞だったが、やはり劇場鑑賞時から抱いていた不満点は拭えない。
まずはテーマ的な部分。ワカンダは最後開国を選んだわけだが、正直あのヴィヴラニウム技術を他国へ提供するヴィジョンが全く分からなかった。SFレベルの超技術を際限なく提供してはそれこそ戦争の火種になるし、そもそも交渉時のパワーバランスも圧倒的にワカンダが上である以上、結局の所ワカンダの決定1つで地球の情勢が左右されてしまうことになるのではないか?「俺たちは超国家なんだぜ?」みたいなドヤ顔で終わるのではなく、技術提供の結果を1つでも見せて欲しかった。ここはインフィニティウォーを経ても解消されなかったな…。
次は映像面。前述した通り後半に行くにつれて映像的な見せ場は減っていく。キルモンガーとの決戦も暗くて見辛い鉱内が舞台だし、そもそもキルモンガースーツとブラックパンサースーツが非常に似ている(もともとどちらもティチャラ用に作られていた)ので肉弾戦をしていると更に分かりづらい。韓国では夜のシーンでも非常に見やすく作られていたのでより残念さが際立つ。
でもまぁ…変身!シーンが超カッコいいのでOK!!!!!!!!
■〆
そろそろ〆だ。
エンドゲーム以降もMCUの中核を担っていくであろうブラックパンサー。今後はワカンダと他国との交流、世界の問題に対してワカンダやブラックパンサーがどう向き合っていくかを観てみたい。MCUの中でも国家そのものを扱える物語なのだから。ソーはどっか行っちゃたからね(笑)。
映画:E.T. ~可愛くてずるいよ!~
れいわ~~~!光光太郎です。
5月3日から午前十時の映画祭、上映作品が切り替わるようで。
スピルバーグ祭りラストの2週。
というわけで今回は、先日映画館にて観てきた
の感想を綴っていきたいと思います。昔からDVDやVHSで観てて、ちょっと世評が高すぎやしないか?と疑ってましたが、前言撤回。こんな素晴らしく「ズルい」映画はないっす。
■感想後ツイート
E.T.観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
泣いたよ。泣いた。完敗。E.T可愛すぎ。
E.T.、ヨチヨチ歩きの宇宙人が可愛すぎる。あんなのズルいよ。ズルすぎ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
E.T.、目撃する映画、驚く映画として無茶苦茶良かった…!未知との遭遇より全然好き。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
E.T.、この映画自体が子供達に対するE.T.的存在なんだね。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
E.T.って5分に1回E.T.の可愛いシーン、笑っちゃうシーンがあるんじゃねぇかって位、ほんとE.T.が魅力的だった。あんなシワクチャで、最初は逆光で殆ど詳細見えないのに、それでも可愛いんだもん。ズルいよ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
■ロジカルに組み上げられた可愛さ
こんなのが可愛いわけないだろ!と思ってましたよ。映画館で観るまではね。
「E.T.」とにかく冒頭から最後までE.T.が可愛すぎる。いや、見た目はキモイんだが、可愛い所作とコントによって犬猫も霞む可愛さになるのだ。いや、今作では犬もいいけどね。
大林宣彦監督は過去に「E.T.は、スピルバーグがアマチュアではなくプロになってしまった作品である」と語っていたが、この可愛さ演出をして言っているのではないだろうか。同じく映画祭で観た「未知との遭遇」はコドモ大人へのメッセージや映画手法をとにかくぶち込んでやる!!という意気込みが前に出まくっていましたが、今作はとにもかくにも観客目線が第一になっている気がします。
「未知との遭遇」の感想。UFOの話しかしてません。
まずは所作について。冒頭最初、彼らはヨチヨチ歩きをする。というかずっとヨチヨチ歩きだ。体を左右に揺らして、短い脚を動かして歩く。これはペンギンや幼児の歩き方に似ています。可愛いわけですよ…。
シワシワで年老いたようにも見える異星人が、庇護欲を掻き立てる動くをするという幾重にも絡んだギャップも可愛さの一因でしょう。
続いて演出。スピルバーグ監督は映画の鬼なので、単に「可愛いやつ」を出すわけがない。映し方で、間で、状況で、台詞の掛け合いで…あくまでも映画として可愛さを作りだしています。基本的なカルチャーギャップコメディだけでは終わらない。
上記全てを兼ね備えた白眉シーンはE.T.とお母さん、妹とのリビングコント。スラップスティックコメディとして抜群に面白い。
映像で分かるのは、スクリーンにばっちり映っているのにE.T.が絶妙に見えていないお母さんだ。バレるかバレないかハラハラと一体の笑い。お母さんが開けた冷蔵庫のドアにどつかれて倒れるE.T.も可笑しく可愛いし、頓珍漢なことを言う妹の台詞にもやられる。
さらりと書いたがここには、状況を分かっている観客と全く気付いていないお母さんとの関係、「分かっていつつも分からない」妹というツイスト、我を貫くE.T.という隠し味によって、関係性のドタバタ感が複雑になっていく。観客が三者全員にツッコめるのだ。これは映像ではなく物語作り、ここのギャグに至るまでの前振りが上手いからこそだろう。
つまりリビングコントは、映像と物語両面から緻密に組み上げられたスラップスティックコメディシーンなのだ。映画で笑わせるってこういうことだろ?一切意に介さないE.T.可愛いだろ?と直球ストレートを投げてくるスピルバーグに三振を捧げるしかない。
このほかにも、笑いと可愛さが奇襲してくるシーンが5分に1回以上挟まれるので、全く飽きずに観ることが出来る。特にハロウィン辺りからは30秒に1回笑う。ルーカスへの気の利いたギャグもあるしね。
■「分かりやすい」ジュブナイル
今作は少年がとある事件や出会いをきっかけにして自己と向き合い成長する、ジュブナイルストーリーです。ここを懇切丁寧に、メインターゲットである子供たちがすんなりと受け止められるような「分かりやすい」筋立てにしています。私は本当に「分かりやすい」話が好きでね…。
主人公エリオット君は両親の離婚により「父親」がいません。精神の依存先がいない、と言い換えてもいいでしょう。これは彼の兄も同様です。これにどう向き合うか?がキモなわけです。
E.T.を匿うことによって彼らは疑似的な父親、保護者を演じていきます。自分がE.T.を守るんだ!という意気込みを実行していくことで自立心が芽生えていきますが、実はそれこそE.T.に依存しているのだと終盤で突きつけられます。ここで疑似親子関係が逆転し、E.T.が父親のような「かけがえのない大きな存在」だと強調されるんですね。
そしてラスト。迎えに来た宇宙船(「未知との遭遇」とは全く方向性が違うファンタジックな、抽象的な、寓話的なデザイン)に乗り込む前、E.T.はエリオットを宇宙へと誘いますが、エリオットは地球に残ることを、E.T.と別れることを選択します。依存ではなく自立を、いない存在ではなくそばにいる家族を選択したエリオットに対してE.T.は「イツモ…ココ二…イルヨ」と言い、去っていく…。映画は見送るエリオットの顔で終わりますが、そこには幼い子供ではなく、強い意志を持った「男」の表情がありました。
依存から自立へと至った見事な筋立て、そしてその思い出には尊い価値があり常に共にあるのだと示し切った、これ以上ないほどサービスに溢れたハッピーエンド。私としては「アリガトウ…」というE.T.に対して兄貴が「僕の方こそだよ…」と返すのも刺さりますね…。彼にとっても、E.T.との思い出はかけがえのないものになったでしょう。
そしてこの「E.T.」という映画自体が、観客にとってのE.T.的存在になっていると。あまりにも見事すぎる完成度に、諸手を挙げるしかない。
■〆
可愛さや笑いや感動を説明するという愚行をここら辺で終わりにしたい(笑)。
とにもかくにも「映画の面白さ」が詰まりきった名作だ。そして「憧れ」を描く上で最重要な「目撃して感激する人々の表情」を入れているところも本当に素晴らしい。ヒーロー映画やファンタジー映画、ホラー映画はここが重要なのよ!泣きポイント!!!
ってなわけで、午前十時の映画祭で、是非「E.T.」を観てくれ!!!!ネットフリックスでも観れるよ。
映画:「アベンジャーズ/エンドゲーム」についてヒナタカさんと話したよ+補足つらつら
こんにちは。光光太郎です。
去る4月26日、遂に全世界待望の作品
アベンジャーズ/エンドゲーム
が公開された!!
寒雨の中自転車に乗り、朝一発目の回で観ました。TOHOシネマズ仙台6番シアターはほぼ満員。
…まぁネタバレ無しではこれ位しか話せないわけです。なんせ友人からも「肯定にせよ否定にせよ、感想を言いやがったら絶交する」と言われるほど、MCU好きのエンドゲームへの思いは強いのですから。
しかし!これを観て何も話さないというのは健康に害を及ぼすので、インフィニティウォーから引き続き、映画ライターのヒナタカさんとお話させて頂きました。
ってなわけで、ここからはネタバレ有りの話をバンバンしていくぜ!!!!
てか観てない人はこんな記事読む前に早く観に行ってくれ!有給でも取って!!!!
因みにインフィニティウォーの話はこちらで。
いやほんと、お声がけしてもらわなければ悶々として死んでいたかもしれん。
■エンドゲームに纏わるツイート
こんなの観たことないぜ…明日の東宝仙台は戦争じゃ…。 pic.twitter.com/p7MFKyc8eL
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月25日
東宝仙台にアベンジャーズ参戦! pic.twitter.com/5huPiRLtTZ
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
写真撮らせてください!と頼んだらむしろ貸すよと言われ…! pic.twitter.com/KL9Gew1KOH
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
TOHOシネマズ仙台、MC好き達が渦巻いてとんでもなく「尊い」空間が生まれている。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
エンドゲーム吹替、最高だった。宮迫博之、あんたすげぇよ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
■「アベンジャーズ」の意味を変えたMCU
MCUは「アベンジャーズ」という言葉を作った。全世界共通の、MCUを観た人なら誰もが分かる概念を言葉にしてくれた。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
Avengersの「Avenge」とは本来、復讐するとか仇を討つという意味。なのでアベンジャーズは「復讐者たち」となるはず。
しかしMCUは数々の映画によって、アベンジャーズ=ヒーローチームという意味を世界中に根付かせました。また、映画「アベンジャーズ」の中で印象的なチームアップシーンを引き合いにし、集合場面を指してアベンジャーズとする用法も一般的になってきたと思います。これはJAWS=サメ、ALIEN=宇宙生命体という、単語の持つ意味を映画が変えてしまった前例に匹敵するでしょう。
エンドゲームは、更に意味を書き換えました。あの大集合シーン、そして満を持しての台詞により、アベンジャーズ=団結する人々へと発展させたのです。特別なヒーローが集う集団がアベンジャーズなのではなく、団結し立ち向かう者達全てがアベンジャーズなのだと。人種も生まれも性別も年齢も関係なく、団結する者が。
これは「エイジオブウルトロン」でもホークアイによって示されたことですが、エンドゲームではそれを全宇宙規模でやっているので、より強調されています。
MCUという神話の意義深さを象徴する言葉が、アベンジャーズなのです。
■変化と絶対、現代アメリカの神話
エンドゲームで象徴的に、繰り返し示されるのは「変化するヒーロー達」と「唯一絶対を自称するサノス」です。これはインフィニティウォーでも何度も提示された「犠牲を払うかどうか?」によく似た対比構造だと思います。
髭をそるキャップ、髪が地毛に戻りつつあるブラック・ウィドウ、太ったソー、ハルクと融合したバナー博士、そして家庭を持ったトニー…アベンジャーズ側はほぼ全員が劇中で何かしら、身体的にせよ精神的にせよ変化します。MCU11年の歴史を鑑みても同じでしょう。皆全て、善悪関係なく「変化」してきました。
ではサノスはどうなのか?彼は徹頭徹尾、自分の信念を曲げなかった。宇宙の命を公平に半分にすることで、平穏を作る…この夢の成就の為にMCU全作品を通して様々な陰謀を巡らせます。これはエンドゲームでも全く変わりません。絶対の存在だから。インフィニティウォーでは、何を犠牲にしても突き進むサノスに、アベンジャーズ達は同じく犠牲を払うものの負ける。
では、何故今回は勝てたのか?彼自身が作った疑似インフィニティガントレットから、アイアンマンスーツの手にインフィニティストーンを移したから勝てた。恐らく、そういう機能を元から組み込んでいたのだろう。
台詞でも示されている通り、サノスは絶対だから負け、トニーはアイアンマンだからこそ勝てた。アイアンマンはトニーそのもの、自己反省と試行錯誤を繰り返し、他者の為に命を懸ける。変化を決意し変化を受け入れ、変化に挑み続けた彼だからこそ、サノスに勝てたのだ。
いや、勝ったのはトニーだけではない。MCUのヒーロー達は様々な困難にぶつかり、そのたびに変化し乗り越えてきた。時には変化によって対立もした。死別も経験した。でもそれでも、正しいことの為に変わろうとし続けた。この「変化」があればこそ、地球だけでなく銀河中の人々と絆ができ、大集合に繋がったのだと思う。そしてあの掛け声を発するのは、時代に取り残されながらも変化しようともがき続けたキャプテンアメリカ、スティーブ・ロジャースなのだ。
サノスは自分の理想のみを信じ、他者を信じなかった。そこに変化は訪れない。
アベンジャーズ達は過ちを犯しながらも正しさを求めて変化し続けた。団結が生まれた。
独りよがりの独裁者に、宇宙を平和にできるわけがない。
足かけ11年。アメリカの11年間と共に歩き続け、社会を見つめ続けたMCUだから描けた、現代の神話、寓話がここにある。
■映画の黄金期
映画の黄金時代は、新時代の映画黄金時代は、今この時にこそある!!!と確信した1日だった。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
映画史どころではない、娯楽史に残るアルティメット大作を、そこに連なる作品群をリアルタイムで追ってきたことを、今の時代を生きる映画ファンは大いに誇ってほしい。われわれは正に、映画の黄金時代を目撃しているのだ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
映画の歴史は100年以上。その黄金期は20年代とも40年代とも、はたまた60年代、70年代とも言われる。今映画ファンをしていると、映画の黄金期は過ぎ去ったという論調をよく聞くことがあるし、実際そうかもしれない…と思ってしまうこともある。
しかし、エンドゲームを観てそんな考えは吹っ飛んだ。映画の新しい黄金期は、正にこの瞬間なのだと!
11年間絶え間なく作られ続けた映画シリーズがあったか?
その大半が内容的にも興行的にも大ヒットした映画シリーズがあったか?
高尚過ぎず気を衒わずに娯楽に徹し、ヒーロー論を語る映画シリーズがあったか?
現代アメリカ、世界情勢を取り入れつつ多様な物語を展開し続けた映画シリーズがあったか?
これらを成し遂げたのが、マーベル・シネマティック・ユニバースであり、その(一応の)締めくくりとして打ち出されたのがエンドゲームなのだ。この伝説を目撃できていることに、心から感謝したい。
映画:ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス 〜当たり前を大切に思えるヒーロー達〜
こんにちは。光光太郎です。
今回は「アベンジャーズ エンドゲーム」へに向けた振り返りとして、前ブログからMCU映画感想記事をお引っ越しです。
それではそれでは
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お久しぶりです。
光光太郎です。
大学卒業してからパソコンがなくなったので、これからはスマホで細々と更新していこうと思います。サクッと意見を残していこうかと。
今回は最近公開された傑作ヒーロー映画
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス
原題【Guardians of the Galaxy Vol. 2】
の感想を書いていきたいと思います。前作も最高だったけど、今回はその100倍面白かったですよ。前作を鑑賞してから行くと面白さが1000倍になるので、事前に予習することをオススメします。
◼あらすじと解説
「アベンジャーズ」シリーズに代表されるマーベル・シネマティック・ユニバースの一作で、お尋ね者たちが成り行きでチームを結成し、銀河の危機を救う羽目になる姿を描いたアクションアドベンチャー「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のシリーズ第2作。スター・ロードを自称するいい加減なリーダー、ピーター・クイルを筆頭に、美しき暗殺者のガモーラ、毒舌なアライグマのロケット、樹木型ヒューマノイドで25センチまで再生したグルート、マッチョな破壊王ドラックスのガーディアンズの面々が、新たな危機に直面し、再び強大な敵と立ち向かうことになる様を描く。高慢な指導者アイーシャが率いる黄金の惑星で、小遣い稼ぎの仕事をこなしたガーディアンズ。しかし、ひょんなことからアイーシャを怒らせてしまい、追われる身に。危機に陥った彼らの前に、ピーターの父親だという謎の男エゴが現れるが……。クリス・プラット、ゾーイ・サルダナら前作からのキャスト陣に加え、ピーターの父エゴを演じるカート・ラッセルのほか、シルベスター・スタローンも参戦。監督・脚本も前作と同じジェームズ・ガン。(映画.comより引用)
◼前作とは?
原題からも分かる通り、今作は「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」(以下GoG)の続編です。MCU(マーベルシネマティックユニバース)の中の1作でもありますが、ユニバース関連を考えずとも面白く観れるのがGoGの大きな魅力でした。それは続編である「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」(以下リミックス)も同様です。
前作の特徴としては
・70〜80年代ポップミュージックの流れるSF
・カラフルな宇宙観
・コメディタッチの会話
等が挙げられますが、私が最も打ちのめされたのは「仲間とはなんなのか?」を見事に映像化した決戦シーンですね。敵を倒すためではなく、ただ痛みを分かち合うために手を繋ぎ合う彼らの姿に何度涙を流したことか……。
その後の「Ain't No Mountain High Enough」が流れるシーンも最高で、等身大のヒーローとは何なのかがよく分かります。スーパーパワーがあろうがなかろうが、助けを求める仲間がいるならどこへだって駆けつける。
「助けを求める時、どこへでも駆けつける」というヒーロー観は、昨年の「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」の終盤でも示されていましたね。将来のインフィニティ・ウォーにて共闘するであろう彼らとの共通点を見いだせたようで、感動していた覚えがあります。
長くなってしまいましたが、GoGの大きな魅力は
いかしたポップミュージックとSFで彩られた、等身大ヒーローに纏わる寓話
であることです。この寓話性が、リミックスではより強調されていました。それでは、今作の感想へと移ります。
■センスオブワンダーなSF&SF
1つめのSFは「サイエンスフィクション」です。
「暮らし再現映像投射機」「超強力マグネット」「宇宙活動用マスク」等々、GoGでは魅力的なメカニックが数多く登場していましたが、リミックスでは「機械修復スプレー」「携帯型宇宙服&飛行装置」「真空防止レーザー障壁」「船外活動用ワイヤー」「重力変換地雷」「義手」といった、更に更にワクワクするメカニックが登場していました。
これらのメカニック達は詳しく説明されることはなく、あからさまに目立つということもありません。例えば「機械修復スプレー」の登場は一瞬ですし、「携帯型宇宙服&飛行装置」の存在が語られる初シーンでは「あれを付けると乳首が痛い」という会話のネタにされているだけで、どういうモノなのかは一切説明されません。
つまり、メカはあくまでも日常に存在する道具に過ぎないという描き方なんですね。技術を特別なもの=異物として扱わせないからこそ、ワクワクする技術が当たり前にある世界を信じることが出来ます。
メカ好きとして非常に面倒くさいことを言いますと、メカそのものが好き!最高!超目立たせるから!最強だぜ!!!という表現よりも、メカを日用品として扱う状況描写が好き!という場合があるんですよ。リミックスは完全に後者であって「機動警察パトレイバー」好きな人には堪らない映画だと思います。
敢えて1つ、大好きなメカを選ぶならば「機械修復スプレー」。ナノマシンによる機械修復のようには全く見えず、まるで魔法のように壊れたミラノ号の船内を直していく描写はまさにセンスオブワンダー!あんな映像初めて観ましたよ。あれぞSFのメカニック!!!
2つめのSFは「スペースファンタジー」。
リミックスのポスターアートはGoGのものと比べても非常に色鮮やかになっていて、極彩色のてんこ盛り宇宙ポスターにはドギツさを感じる程でした。
そして、そのドギツさそのまんまな宇宙が本編では描かれていたんですねぇ……最高!!あそこはスターウォーズやスタートレック等の宇宙とは全く異なる、エンタメ中毒のビッグバンが創造したコミック・ギャラクシーなんですよ!
まず冒頭に登場するソヴリンからして、惑星の形がどうかしてます。おせちに入ってる赤いお捻りのアレみたいな形です。金ぴかソヴリン人も正にコミックキャラクターといった出で立ちで、意図的にメイクっぽくしていたように思えます。
そして何よりも、エゴの惑星ですよね。表面にしても内部空間にしてもセンスオブワンダーの塊でした。彼のナルシスティックさと孤独さがよく表されていて、物語を形作る上でも素晴らしい存在であったと言えるでしょう。
もうひとつ特筆するならば、スピーディーなワープですね。あれは画期的な発明でしょう。
ドラマやキャラクターだけでなく、宇宙そのものに惹かれてこそのSFですよね!リミックスは最高の娯楽映画にして、最高のビジュアルSF映画です。
■悪趣味センス爆裂な映像
GoGやリミックスの監督であるジェームズ・ガンは、元々トロマ・エンターテイメントという悪趣味お下劣映画を作る会社に所属していました。彼の傑作である「スーパー!」を観ると、その悪趣味演出をたっぷり拝むことが出来ます。
GoGではかなり抑え目でしたが、リミックスではタガが外れたかのように悪趣味演出下ネタ台詞のオンパレードに。う◯こやゲロネタは当たり前で、下半身ネタもてんこ盛り。
特にやり過ぎなのは「指」と「ワープ」と「ポップミュージックを流しての大殺戮」でしょうね。本当に酷い…。まぁ、劇場は大爆笑でしたけどね。
■寓話性
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのシリーズは、広大な銀河を舞台にした活劇です。我々が住む世界とは全く異なるように見えますが、そういった舞台で描かれるドラマの方が、スッと心に入ってくる場合があります。現実に則していない分、表現が極端な分、ちょっとした動作や言動が際立ち、キャラクターの心情が分かりやすくなるのだと思います。
例えばガモーラ。
彼女はエゴの星にあるシャボン玉の美しさに魅せられ、触れようとしますが、すんでのところで手を引いてしまいます。ここから、自分が求めるものにいつも一歩下がってしまう彼女の様子が分かります。演じるゾーイ・サルダナさんもインタビューで仰っていましたが、年上のお姉さんポジションでいようとする気持ちと、過去の罪の意識とが相まって、仲間を大切に思っていても素直になれないのでしょう。
そして、今回のドラマに大きく関わる、ピーターの父親であるエゴ。彼と対比する存在として、ドラックスとヨンドゥがいましたね。
エゴは様々な星の生物と愛し合っていました。恐らく、その愛は本物だったのでしょう。しかし、彼は他者に対するリスペクトの姿勢、謙虚さが欠けており、他生物が抱く「当たり前の幸せ」を思いやることが出来ませんでした。対してドラックスは、価値観も見た目も異なるマンティスに対して「謙虚」に接し、彼女に対して真摯に向き合います。彼女が抱く「当たり前の気持ち」を、ドラックスは決して否定しませんし、軽視することもありません。(確かロケットのことも終始名前で呼んでいたはず➡ロケットは動物呼ばわりされるのが大嫌い)
エゴはピーターの父親でしたが、ヨンドゥは育ての親。エゴがピーターに対して抱いていた愛情は自分本意なものであり、ピーターが裏切った際にはあっさりと情を捨て、卑劣な手段を用いて服従を強います。対してヨンドゥは、ピーターが何度自分を裏切ろうとも決して見捨てず、不器用な愛情を持って向き合い続けました。ヨンドゥがピーターに向ける愛情には、エゴイスティックさなどは欠片も無かったでしょう。
………書きたいことを書いていたらとっちらかってきましたが、とにかくここで言いたいのは、ぶっ飛んだフィクション物語の中でこそ、ノンフィクションな我々の世界の真実を垣間見ることが出来るということなんです。
・相手の「当たり前の幸せ」を尊重すること
・どんな理由があっても心を踏みにじってはいけないこと
・どんなに言い争いをしても家族の絆は絶ちきれないこと
・ほんの小さな仕草にも心が表れていること
・音楽は最高!
こういった、面と向かって言うと全く心に入らない「良いこと」を心の底から信じさせてくれる…自分の行動を変えようという気持ちにさせてくれるからこそ物語は素晴らしいし、真っ向から描けるヒーロー物語に魅せられ続けるのだと思います。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」は、誰に勧めても、誰に対して話しても恥ずかしくない、本当に素晴らしい映画でした…。
(リミックスを観た日の夜は家族に電話しました。)
◼残念感想
今回残念に感じたポイントは次の3つです。
①またもや欠席するグルート
GoGに続いて、チーム結成のキメ画にグルートがいない……。vol.3への引っ張りなのかもしれないけど、ちょっとガッカリ。
②ぶったぎり感の強い中盤
中盤、エゴの星とラヴェジャーズ船とで展開が別れます。それぞれが無類に面白くはあるのですが、盛り上がって一方へ、盛り上がって一方へという感じなのでテンションや話の流れが唐突に切れる感覚になってしまいました。
③ポップ過ぎる大殺戮シーン
ぶち上がるシーンだし楽しいけど、どうしても不謹慎な感じになってしまう。相手も大悪党だけど、大笑いしながらの虐殺をポップに見せるのは……そこまで気にするシリーズでもないけれど……うーむ。
◼終わりに
最後に細かいところでいうと…
・エゴの繁殖細胞が「ブロブ」そっくり
・ガモーラ滅茶苦茶力持ち
・皆かわいいものが大好き
・宇宙観が全体的にラチェット&クランク4っぽい
・ガモーラとネビュラの「あぁ〜疲れた…しんど…」って感じに歩くシーン最高
・3Dの方が情報整理されてて見易い!
・吹き替えは相変わらず最高
・産みの母と育ての父から音楽にのせて受け継がれるスピリット、という熱さ
・加藤浩次のクレジットの(極楽とんぼ)に泣く…
とにかく!今年最大級の王道エンタメ作品であることは疑う余地無しなので、何度でも劇場に行って観てみたい!サントラもヘビロテだ!!!!