光光太郎の趣味部屋

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第七の封印 ~神の不在?そうかな?~

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このビジュアルに一目ぼれしてレンタル鑑賞したのが3年前。

白黒コントラストが効いた映像はカッコよかったし、分かりやすいキャラクター達のロードムービーは楽しい。全体を覆う無常感は堪らない。

しかし、分からなかった。何が言いたいのか全然分からん。

難解な映画だという印象が残った。

 

www.zaziefilms.com

 

そして今年の夏、仙台にもベルイマン生誕100年映画祭がやってきた。

仕事の都合で「第七の封印」を観ることは出来なかったが、「沈黙」と「叫びとささやき」を観た。全く分からなかったし、正直だいぶ寝た。同席していた数多くのシネフィル仙台民に申し訳ない…。

 

劇場で販売されていた2冊のパンフ、そして町山さんによる解説を聞いた後で、再度「第七の封印」を観てみると、驚くほど分かりやすい!!!!!!そして面白い!!!

 

何故初見では分からなかったのか?二度目の鑑賞では何故分かりやすかったのか?今回はそこらへんに着目して感想を書いていきたいと思う。

 

 

作品情報

監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
製作:アラン・エーケルンド
出演者:マックス・フォン・シドー(騎士アントニウス
   :グンナール・ビョルンストランド(従者ヨンス)
   :ベント・エケロート(死神)
音楽:エリク・ノルドグレン
撮影:グンナール・フィッシェル

第10回カンヌ国際映画祭審査員特別賞

 

 

初見で分からなかった理由  

これは「身構えて観すぎた」ことに尽きる。難解な宗教映画、神の不在を問う映画として観てしまったために、映像に映るものへの集中力が欠けていたからだ。

ヨーロッパやキリスト教についての知識云々関係なく、映像に映るものを繋げていけば分かるが、これって言うほど簡単ではない。だからこそ、難解だ難解だと言われるのだと思う。

 

映像を観るだけで分かりはするのだが、イングマール・ベルイマンという人を知ることでより分かりやすくなるので、そこら辺にも触れてみたい。

 

 

イングマール・ベルイマンとは?

町山さんの解説を聞くのが一番早い。

www.youtube.com

 

今作に関係することでは「神の不在」に翻弄され続け、それを表現し続けた人だ。

国際的に評価された宣教師である父の、家族への暴力。キリスト教では忌むべき存在とされる性への飽くなき欲求。不条理を突きつける神への不信を持つ一方で性欲に負けたことを悔い神へ懺悔する…こんがらがったコンプレックスと欲望とをコントロール出来ない日々が、50歳まで続いたという。唯一ぶつけられるのが、映画だった。

 

また、技術面でもテーマ性でも、後世に絶大な影響を与えた大監督でもある。この動画で出てくる「影響を受けた作家一覧」を観ると、その影響力の大きさが分かるだろう。

www.youtube.com

 

最もやりたかった企画

「第七の封印」の基は、戯曲として生まれた。ベルイマンは映画化を望んでいたが、題材の難解さ故に会社はOKを出さない。しかし「夏の夜は三たび微笑む」が興行的批評的に大ヒットし巨匠としての地位を得たため、製作に取り掛かった。自由に撮れるようになってから初めて作り出したのが「第七の封印」である。

結果、今作も国際的に評価され、この後製作される作品群も高評価を得続けることになる。前作が言わば職人映画であったのに対し、今作はとことん個人的な思いを詰めて作った作品なので、ベルイマンが本格的に走り出したのは「第七の封印」からだろう。

 

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「第七の封印」は分かりづらいのか?

今作は難解な映画、と評される。次の知識が必要だと思われるからだ。

しかし、これらの知識がなくとも楽しめるように出来ている。

そもそもベルイマンが今作の着想を得たのは、劇中に登場するような教会の壁画…死神が騎士とチェスを指す、死の舞踏…である。絵とは見て分かるものであり、描かれていることからしか情報を読み取ることは出来ない。知識はあくまでも補足であり、絵の外にあるものは本質ではないのだ。

 

 

観れば分かる「神の不在」

「第七の封印」も、映像を観るだけで全て分かる様に作られていると、私は思う。

例えばアントニウスが問い続ける「神の不在」についてだが、実は冒頭で「神はいる」と映像で映しているのだ。

 

まず、目の前に現れて会話もする死神だ。キリスト教で死を執行するのは天使らしいが、天使は神の使いなので間接的に神が存在すると示している。キリスト教云々を抜きしても、死を司るのは神的な存在でしか有り得ないことは分かるだろう。教会において死神は懺悔を聞く側に立っていることからも、彼が神の裏返し、もしくは同一の存在であることが分かる。

 

次に、旅芸人のヨフが見る聖母マリアとその子供だ。ヨフは唯一、死に至る前に死神を見たり、死の舞踏を見たりする人物なので、ここで見た聖母マリア達は本物だろう。

死神と聖母マリア、そして目撃するアントニウスとヨフによって、滑稽すぎる程に、神は存在すると示される。何故見えるのか?彼らは何なのかという「理由」は必要なく、ただいるという「結果」しかない。

 

では本作で問われる「神の不在」とは何なのか?これは「都合のいい神様はいない」ことだと思われる。神的存在を見る人々と、そのシチュエーションから考えてみよう。

 

死神は会った人物に死を届けるので、人間にとってはいい迷惑どころか悲劇だ。

旅芸人の団長は「殺さないでくれ」と死神に懇願するが、そんなことは意に介さない死神によって問答無用で殺されてしまう。ここでのコミカルな会話やアホすぎる殺害方法が、尚更死神の不条理さを際立たせている。

 

アントニウスは何度も何度も死神と話をするが、まともに取り合っては貰えない。はぐらかされ、チェスでじわじわと追い詰められ、一筋の希望すら黒く塗りつぶそうとする。最後は、別れたヨフ夫婦を除く旅の仲間全員が死神を目撃し、一言も発しない死神によって殺される。

 

死神に人間の都合なんてものは存在せず、助けてという声を無視して人の命を奪うだけ。チェスも興味だけでやっているのだろう。気まぐれだ。

 

聖母マリアはもっとたちが悪い。人間達が神の名の下に無益な戦争を繰り返し、黒死病が蔓延する最中に、自分の子供がかわいくて仕方ない。ここに至っては対話もなし。救いを求める人の声を聞きもしない。

 

この様に、神達は人間のことなどお構い無しに自分の都合だけで動いている。そこに何かを求めること自体が無意味なのだ。アントニウスキリスト教信者にとっての「神の不在」。

 

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「第七の封印」パロで一番有名?

若き日のキアヌ・リーブスが死神と生き返りをかけて潜水艦ゲームで戦う映画。 

 

神の実在

対して、神の実在を信じ報われる人物もいる。

 

まずはやはりヨフだ。息子にミーカエルと名付ける位なので、彼もキリスト教徒だろう。しかしアントニウスや「むち打ち集団」の様に神へ救いを求めたりはしない。妻と子を愛する、それ以上は必要ないのだ。なので神や死神を目撃しても「それはそれ」として自分らしくいる。彼にとって神は「いる」だけ。だからこそヨフにだけ見えるのかもしれない。

 

二人目は喋れない少女。死神を前にして「やっと終わるのね」と初めて口を開き、涙する。彼女にとって死神は、週末の世から自分を救う神の様に見えたのかも。終わりを切望する彼女に「神は実在」したのだ。

 

結局のところ、超常的な存在が起こす不条理をどう捉えるか?なのか。だとすれば、神の奇跡を求める人々にとって、神はいつまでも不在の存在なのかもしれない。すぐそこに神=超常はいるのに。

 

滑稽だ。「第七の封印」はコメディとして観ることも出来る。神はどこにいるのか!!応えてくれ!!いま〜〜〜す(笑)みたいな。

 

 

摩訶不思議なロードムービー

小難しい話が続いたが、前述した通り今作はロードムービーである。

十字軍遠征から居城へ帰る途中のアントニウスと従者ヨンスは、帰途の中でヨーロッパの現状を目撃し、旅の仲間を増やしていく。

 

アントニウスは死神とのチェスや神への質問にお熱なので、物語を動かしていくのは専らヨンスの役目。なによりもヨンスのキャラクターが面白い。

アントニウスとは主従というより腐れ縁の相棒であり、皮肉や軽口を飛ばしまくる。旅先で出会う人とも気さくに?話すし、困っている人がいれば我先に助ける。実際、旅仲間の殆どはヨンスに助けられている。アントニウスは何にもしない(笑)。ただ、アントニウス達を焚き付けて遠征に行かせた神学者には非情に振る舞う。

 

旅芸人一家は終末間漂う世界の中でも仲が良く、優しさもある。劇中で朗らかな仲なのはヨフ達だけだ。ただ、死神を見てすぐに家族を連れて逃げるしたたかさもある。

彼らと過ごす丘での一時は、劇中で最もポジティブな時間だ。

 

ここで死神とチェスを指す際は空や草原の白色が画面を覆っており、アントニウスが希望を持っていることが分かる。初戦や森中での戦い、そして城内で相対するシーンとを見比べると一目瞭然だ。ここでも「見れば分かる」が炸裂している。


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草原での戦い。ここでは死神が心理戦を仕掛け、黒が画面を支配する。草から顔を出しているわけではない。

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切り返すとこうなる。アントニウス側も黒で支配されつつある。「見れば分かる」だ。

 

旅芸人の座長を誘惑する女と、彼女に逃げられた鍛冶屋の夫。鍛冶屋と座長が繰り広げる罵り合いバトルは「サニー 永遠の仲間達」に影響を与えた…のか?ここでもヨンスの皮肉が冴え渡る。何故女をつくりたもうた?

 

悲惨なヨーロッパの現状も、旅の中で明らかになっていく。

道には骸が横たわり、教会は生ではなく死を説き、終末論者達の邪教集団が町町を練り歩き(異様にいい声)、魔女とされる女は火炙りにされる。弱った人々は更なる弱者を苛める。悲劇が弱さを産み、弱さが弱者を作り、弱者が悲劇を生むという連鎖。コミカルなキャラクター達とは対照的に、正に地獄。いや、地獄だからこそコミカルに振る舞うのだ。ヨンスは魔女の火炙りを見て、劇中最初で最後の弱音を漏らす。

 

最後、アントニウス一行は居城へたどり着くが、そこは黒が支配する世界。生のロードムービーは終わりを迎え、死との舞踏が始まる……。

 

終末世界を旅する映画として、なんとキレイな終わりだろうか。世界は終わらないと思う者だけが、死から逃れた。

 

 

さて、そろそろ結びだ。

今作は「神の不在」という難解なテーマを「見れば分かる」お話にした、カッコいい映画なのだ。見たものを、ただそこにあるものとして捉えるのは中々難しいが、そうすれば必ず分かる…はず?ハハハ(笑)。