映画:ロッキー ~Going the Distance~
はい、というわけで今回は不朽の大傑作
ロッキー
の感想を書いていきたいと思います。今回はいつにも増して散漫な内容になるかも…。
ロッキーと共に
小学生の頃から父親にロッキーシリーズを見せられてきた。正直高校位までは、良さが分からなかったと思う。シルベスター・スタローンはロッキーと言うよりランボーのイメージが強かったし、何より展開が地味で真面目に観てなかっただろう。
が、大学に進み、事前知識を得てから観た「ロッキー」は、不思議なほど心にしみた。実家に戻って「ロッキー・ザ・ファイナル」を観た時は、スタローンとロッキーとを重ねて号泣してしまった。隣に両親がいるにも関わらず…。
就職し、会社人になってからしばらく観なかったが、仕事で大ポカをやらかし体調まで崩した日にふと「ロッキー」を観たら、顔がぐしゃぐしゃになるほど泣いた。どんなにボロカスになって挫けそうになっても、勝てなくても、とにかく立ち続けようとするロッキーに、どれほど勇気を貰ったことか。
ロッキーが心にある限り、ギリギリの所で踏ん張れる、ような気がする。
ロッキーはスポーツ映画なのか?
シルベスター・スタローン演じるロッキー・バルボアは3流のうだつの上がらないボクサーで、トレーナーのミッキーにすら愛想を尽かされている。ペットショップで働くエイドリアンが好きだが、引っ込み思案な彼女と上手くコミュニケーションを取れていない。そんな彼の元にとある事情から、世界チャンピオンのアポロ・クリードとの試合が舞い込んでくる。自分のため、愛するエイドリアンのため、ロッキーはこのチャンスに全てを懸ける…。あらすじは大体こんな感じだ。
こう書くとまるでスポーツ映画の様だが、今作はスポーツを主題にしてはいないと考える。その理由を、以前書いたブログ記事から、少し長いが引用したい。
筋肉スポ根映画と誤解されがちですが、そもそも「ロッキー」は「ボクシング映画」というより「自分の思いを貫く」人間ドラマなんです。ボクシングシーンはほんの数分しかなく、上映時間のほとんどはロッキーやフィラデルフィアに住む人たちの会話劇。そのドラマと人物の思いは試合というクライマックスに向けて集約されていき、ボクシングという「ボロボロになりながらも自らの気持ちを頼りに、孤独に戦うスポーツ」によって物言わぬ演出がなされ、ドラマの最終到達点となります。
長い時間をかけて丁寧に描かれてきた会話劇が、物言わぬ拳と拳のぶつかり合い、静かで激しい意地と意地のぶつかり合いによって、これ以上ない程胸を打つ物語として昇華されるんです。ロッキーのボクシングはエンターテイメントではなく、ドラマを語る場です。その為、ロッキーシリーズにおいて勝敗はそれほど重要ではありません。重要なのは、ボクシングを通じて何を確立できたか、どんな意地を通せたか、です。
つまりロッキーシリーズとは「人間ドラマの集約点としてボクシングがある作品」なんです。しかしこれは、ボクシングというものを置き換えても成立するドラマです。ボクシングの代わりに、仕事や部活を置き換えることもできるでしょう。様々な負け犬たちが自分たちの存在を示す物語として、どんなに打ち負かされても自分の思いを貫き通す物語として、誰にでも当てはまる普遍的なドラマ…それがロッキーシリーズなんです。
bright-tarou11253350.amebaownd.com
長い上にまだるっこしいけど、言いたいことはまとまっている。
「人間ドラマの集約点としてボクシングがある作品」ということだ。
1発のパンチに、1つのダウンに、立ち上がる姿に2時間のドラマが詰まっている。最早泣くしかない。
ボクシングで泣く映画の古典と言えばこれ。あしたのジョー…!
しとやかに力強いラブストーリー
「ロッキー」はスポーツ映画と言うより、とびきり純粋で熱いラブストーリーだ。
前半の目的はエイドリアンに歩み寄ることだし、それが果たされた後の後半はアポロとの決戦にシフトしていくが、そこでも両者の愛が軸になっている。何より、愛を叫びながら終わる映画なのだ。間違いなくラブストーリーである。そしてこのラブのストーリーは、とことん地味で、力強い。
ロッキーとエイドリアンは、とても良く似ている。両者とも華やかではないし、年齢は30を超えている。暮らしぶりも豪勢ではない。しかし最も似ているのは、心だ。
ロッキーは積極性と口数はあるが、どこか無理してやっている様に思う。何とかして、エイドリアンと心を通わせたいだけ…。彼女を好きになった切っ掛けは語られないが、自分と似た孤独な彼女を、どこか自分に後悔しているような彼女と一緒にいたいと、慰めあいたいと思ったのかもしれない…。
エイドリアンはとことん内気で、前半は殆ど喋らないし目も合わせない。今まで男と付き合ったこともないらしい。最初ロッキーからのアプローチには戸惑い拒否するばかりだったが、感謝祭でのデートが彼女を変えた。リードするも、決して強制することなく、優しく接する彼に段々と心を開いていくが、それでも怯えてしまう…でも、怯えているのはロッキーも同じだと知った。瞬間、ロッキーと心が繋がったのを感じたろう。愛と勇気が生まれた瞬間だ。
2人は付き合い、心は通った。が、アポロとの戦いというチャンスをきっかけに、ロッキーは「自分がごろつきでないこと」を証明するために、自分自身へ立ち向かうことを決意する。何のために証明するか?そりゃ、エイドリアンのためだ。エイドリアンもまた、どんなにボロボロになっても立ち続ける彼に寄り添うため、リングへ駆けつける。
ラスト、ロッキーは人生の支えとなる女の名前をひたすらに悲痛に叫び続ける。エイドリアンは男の愛と嘆きに応える為、走り出す。最早2人の間に負い目はない。愛を叫び、抱き合い、愛の成就を目撃して、物語は終わるのだ。号泣。
エイドリアンを演じるタリア・シャイア。シリーズを重ねるごとにメイクが濃くなり強気になっていく。
Gonna Fly Nowのトレーニングシーンが激熱な理由
上映開始から1時間30分辺りで「Gonna Fly Now」がかかりトレーニングのモンタージュが始まる。小学生の頃から何度観てもテンションがぶち上るシーンだが、これは巧妙に組み立てられた「ぶち上り」である。理由は2つで、1つ目は初めてノリのいい音楽がかかること、2つ目は編集と動きのリズムが超加速することだ。
ロッキーシリーズは「Gonna Fly Now」を始めとした音楽があまりにも有名だが、実際映画を観てみるとダウナーな暗めの楽曲が多い。話が地味なら音楽もしっとりしてるのを1時間以上体感した後に、ブラスが効いた熱い楽曲をぶち込まれたら、そりゃ盛り上がるに決まっている。
前述した通り、序盤から中盤まで、ぶっちゃけ終盤まで会話劇が中心なので、カメラワークも編集もどっしりと構えた安定感あるものになっている。悪く言えば、もっさりだ。それでも、路地裏を歩いてる途中で唐突に始まる負け犬会話や遠くから捕らえたショットなどで関心を引き続けるのだから凄いのだが(今思うとジャンプカットが多くて動くがないものの展開は早いから飽きないのかも)、「Gonna Fly Now」トレーニングシーンでは編集テンポがMV的になり、ロッキーもトレーニングによって激しく体を動かしていく。画としても映像としてもリズミカルにダイナミックになるので、テンションが「ぶち上る」。
「Gonna Fly Now」トレーニングシーンは、映画的快感に満ちているからこそ、激熱なんだ。
going the distance ー立ち向かい続けるー
アポロ戦前夜、ロッキーは「勝てない」と呟く。この時点でもう、無名選手がチャンピオンに勝つという物語ではなくなる。屈することなく立ち続けた、という結果を残すためだけの戦いにロッキーは挑んでいく。
現実世界において、このようなビッグチャンスは中々来ない。然らずんば、我々にとっては毎日がアポロ戦だ。何をチャンスにするか、そこに立ち向かうかどうかは自分次第。
いや、戦うという意識すら必要ないかもしれない。自分の中で絶対に退けない一線だけを守るために、どんなにボロボロになったとしても、立ち続けるだけでいい。
負けなければ、勝ちなのだ。
ポエム語ってんじゃねぇよ!!って人はこの解説をどうぞ。