光光太郎の趣味部屋

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映画:ジョーカー ~俺の主観が最強よ~

こんにちは。

光光太郎です。

 

Joker (Original Motion Picture Soundtrack)

遅ればせながら「ジョーカー」を観てきた。時期的にもう観れないだろうな、と思っていたので散々ネタバレを踏んでいたが、まぁなんとか観れた。

 

これは「主観」についての映画だと思った。「気の持ちよう」でもいいかもしれない。

 

ホアキン・フェニックス演じるアーサーは最初、自分を弱者だと認識していただろう。病気持ちだし(恐らく)薄給だし頭もいいわけでなく字も汚いし喧嘩も弱い。だからこそ、助けてくれるはずのカウンセラーから軽く扱われても、ゴッサムスラムのガキからリンチされても、上司から理不尽に怒られても無抵抗だった。自分は弱者で何も出来ないのだからと。

 

序盤、彼は銃を手に入れる。肌身離さず「力」を持ち歩く。そして偶然、インテリチンピラを射殺してから、加速度的に彼の自己認識は変化していく。自分には力があるし、世間も自分を認識し始めた…自分への「主観」が変わった、自信を持ち始めたのだ。そこから彼はどんどん「カッコよく」なってゆく。コメディアンとして初めてショーに出ることにも挑戦した。

 

テンション昇り調子のアーサーだが、出生や母を巡る問題、そして憧れのコメディアンから馬鹿にされたことで、信じていた夢が瓦解してしまう。今まで彼を支えていた「主観」は一気に逆転し、憎しみの「主観」へと変貌するのだ。

 

そしてジョーカーへと変身する。信じたいものを信じ、やりたいことをやる。病気の笑いでなく、心から笑うためのことをするのだと。弱者を指差し笑いものにすることを「上品な笑い」と宣う奴を撃ち殺す。

 

アーサーは「主観」を転換させることで、自分が幸せになれる道を歩み始めたのだろう。社会道徳に照らし合わせればその行為は全く許されないが、クソの役にも立たず見向きもしない「客観」よりも「主観」なのだと。ある意味理想的な生き方だ。

 

 

「主観」は正しさとは別だ。アーサーの最初の殺人に意味を勝手に見出してピエロをシンボル化するのはマスコミや群衆の「主観」であり、アーサーの意図とは全く異なる。マレーの正しさは、一定の客層に支持される笑いを提供すること。アーサーの母親にも、トーマス・ウェインにも、ブルース・ウェインにも、彼ら自身の正しさの基盤となる「主観」がある。そしてそれは、他者の「主観」と相容れるとは限らない。

 

そもそもこの映画で語られていること自体、アーサーの妄想に過ぎないかもしれない。いや、誰が個人の「主観」を妄想であると断言できるのか?劇中、アーサーの憧れは絶望と憎悪へ変化したというのに…。

 

ジョーカーはバットマンヴィランであるので、今作はヒーロー映画に対してヴィラン映画と言えるかもしれない。そして、私はヒーローに纏わる物語は全て教育物語、教訓を伝える物語であると思っている。では「ジョーカー」は反教育的な物語なのかと言えば、そうではない。むしろ生きる上での知恵を教えてくれている。

 

 

誰が何を考えているかなんて分からないんだから、信じたことを真実と思うしかない。

そして真実の対象にされた人は、その人にとってのヒーローやヴィランになる。

 んでもって「真実」は変わりやすい。

 

 

これは日本の特撮ヒーローものでも散々テーマにしてきたことでもある。

さて、明日も空元気の「真実」を持って、仕事に行きますかね…。


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