映画:風の谷のナウシカ ~天才が変える世界~
ジブリ映画と言えば…金ローで何度もやっている「国民的アニメ」という印象が強い。その割にグロいシーンがいっぱいあるし難解な話も多いのに、やたらと周囲が好き好き言う。子供の頃は、いやこれ以外にも面白いのあるでしょ!と卑屈になっていたもんだ。TVで観たことしか無いのに知った気になり、偏見を持ち、ここまで来てしまった。
しかしコロナによって映画館が危急存亡の今「一生に一度は、映画館でジブリを」ということで
を観てきました。舐めた態度をぶっ飛ばす、エンタメ傑作でしたよ。光光太郎です。
ナウシカ、相変わらずお話はよく分からんが、無茶苦茶面白かった!!!!!!!!
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年6月26日
って話を上映終了直後に母さんに電話して伝えた。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年6月26日
TVではなく映画館で
ジブリと言えば、金曜の夜、ご飯を食べながら観る映画である。ミキプルーンのCMに飽き飽きし、眠くなってきたら寝る。レンタルでは観ない。そんなテンションである。ひねた子供に対して母はジブリ大好きだったので、よく話を聞いていた。
そんなこんなで、ナウシカ劇場初鑑賞。なんならジブリ作品(ナウシカは厳密には違うらしい)を自分の意思で映画館で観るのも初だったが、前述した通りぶっ飛ばされた。何度も何度も観て読んで聞いてきた話ではあるものの、全く異なるものを観ているよう。やはり映画館で、集中して一気に観ると、作品エネルギーの強さ、そして作家宮崎駿のオタクスピリットを直に感じる。
さて、いつも通り個人的な感想を書いていくので、作品情報やスタッフの証言などは他のページや本などを参照されたし。
メイキングに纏わる本としては激安
完璧超人、ナウシカ
TVで観ていた頃から、ナウシカというキャラクターがよく分からなかった。メーヴェを駆るお姫様で知識人であり自然への理解もあることは分かるがそれは属性というか役割であり、人物像が見えてこないのだ。
劇場で観て理由が分かった。ナウシカは成長する必要の無い天才なのだ。
優しく強く学があり人望もあり自信過剰になることも無く人間や自然の為に全力を尽くせる人物…徹頭徹尾これで克服するべき弱さをほぼ持っていない。人を殺して落ち込み、それをきっかけにして「命の奪い合い」を止めようとするものの、成長と言えるほど劇的ではない。中盤で腐海や王蟲の役割を知るものの、当初から研究しているため自然破壊には難色を示すはずだ。
ラストの自己犠牲さえ、物語当初であっても行えただろう。それだけの強さ賢さを持つキャラクターがナウシカであり、それこそがナウシカの魅力なのだ。男女の観客全てを虜にする強さを持っているというわけ。むしろ成長要素は敵役のクシャナ殿下にあてられている。
(偏見溢れる文言をどうか許して欲しい)
メカ、銃器、ナイフを巧みにカッコよく扱う女の子を、オタクが嫌いになるはずはない。
おしとやかで快活なお姫様を、嫌いになる男がいるか?
男を打ち負かし、どんな状況下でも的確に指示出しをする姿に、憧れを抱く女性は多いだろう(私も憧れる)。
学問と研究に理解があり世界を解き明かそうと努力するのは、勉強する子供達には煌めいて見えるのではないだろうか。
そして何よりも、可愛く美しくカッコよく描かれているナウシカの姿に見惚れない人がいるだろうか?「絶対に美人に描いてやる!!!!」宮崎駿の執念を最も感じた所だ。どんな時でも挫けず前を向きすべきことする、そんな強さがナウシカのキャラクター性なのだ。
カッコよすぎる
一人の天才が救う物語
そんな強いキャラクター性が裏目に出てしまったのがストーリーであり、ラストだ。
結局の所、超強いナウシカの頑張りによって王蟲の進行は止まり、トルメキアと和解も出来たことになる。途中でペジテの人々やアスベル等から手助けしてもらうものの、それは状況からの脱出に過ぎない。王蟲を止める力と決断はナウシカに元々備わっていたものであり、誰かとの交流により成長した結果の行動では無いと思う。
人間同士の戦いを止めようとしていたのはユパも同じだが、どちらかと言えば「巨神兵だけは止める」ための行動に近いだろう。
幼児にトラウマとロマンを植え付ける王蟲…スクリーンだと怪獣にしか見えない。これ以外の蟲達も恐ろしく、そしてカッコいいのだ
ナウシカは判断してから行動へ移るまでの時間が極端に短い上に最初からフルスロットルで動くから見ていて気持ちがいいね。周囲はドン引きしてるのが多いけど(笑)。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年6月26日
戦争も、自然との衝突も、全てナウシカの素質に基づく自己犠牲行動で止められた。
確かにヒロイックかもしれないが、それなら民衆なんてのはいらないのだ。無茶苦茶出来る人が頑張るだけでなんとかなるなら、勝手にやってくれ…と卑屈になりきらないギリギリのラインを保っている作品であるとも思う。
天才と触れて変わる人々
何度も「ナウシカは完璧」と書いてきた。つまり対照としての周囲は完璧ではなく、彼らこそがナウシカとの交流によって変わり成長していく。
顕著なのは前述したクシャナだろう。ガチガチに着込んでいた鎧を脱いで再登場するように視覚的にも変化が分かりやすい。当初は厳しく強硬派だったものの、腐海でのナウシカの行動を見てからは少し態度が柔らかくなり、エンディングではナウシカと対等に話していた。彼女によってトルメキアも変わっていくだろう。
個人キルカウントでは作中最多クラスのアスベルも、ナウシカとの出会いを境に心境が変わっている。ペジテも彼によって変わっていくはずだ。
ナウシカは完成された天才であり成長することはないが、彼女を目撃した人々は変化するし、その人々によって世界は変わっていくだろう。ナウシカだけでは世界を変えることは出来ないのだから。
アルティメット・オタク・ムービー
色々と書いてきたが、今作はまごうこと無き「オタク映画」だ。綿密に練り込まれた設定を、細部にまで拘り尽くして描写することそのものが目的化しているように見えるほどだ。独りよがりさともとれるが、これによって世界観が非常に豊かになっていることも事実だ。腐海関連は言うに及ばず、風の谷の文化やトルメキア達の軍備、それぞれの服飾などに至るまで明確に意味を持たせて描き分けている。
このリアルなようでかなりデフォルメの効いたキャラクターデザイン=衣装デザインも好き。王蟲のデザインもかなり多くて、スクリーンで観るとその恐ろしさカッコ良さがより分かる。というか、観ていて古さが全く感じられないのがすげぇ。 pic.twitter.com/7CzSLyhbqI
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年6月26日
そもそも、冒頭の冒頭で、銃弾の火薬とライフルのボルトを利用して連鎖爆発を起こすシーンを描くようなアニメが、オタク・アニメじゃないわけがないのだ。よく説明もせずに専門用語をバンバカ使う(しかし映像では分かる様にしている)のもオタク・ムービーっぽい要素だ。ドッグファイトへの異常な拘りもそうだ。これは劇場のスクリーンだからこそ映えるシーンだった。というかドックファイト多すぎなんだよ!でも全部面白い上に状況が違うという凄まじさ…。違いと言えば王蟲を始めとする蟲達のデザインも秀逸だ。単に見た目の違いだけでなく、この蟲はこういう特徴があって、この蟲はこう攻撃する、と言うのを全て映像で分かる様に描いている。
クシャナの変化でも触れたが、宮崎駿は何よりも映像で物語を語る作家だと改めて実感した。自己満足、自己完結優先なのかもしれないが、自分が良いと思うエンタメの追求であり、アクションで語るそれは観客にとっても楽しいものなのだ。
トラウマ箇条書き
・ボロボロにされた王蟲の子供
自然、それも神々に近い様な王蟲を犯す背徳感。見た目のえぐさは勿論だが、子供を利用するという外道の所業も衝撃だった。人間によって迫害される自然というモチーフは今後も続いていく。ナウシカの語り直しであるもののけ姫は顕著だろう。
・幼いナウシカに伸びる大人たちの手
問答無用で子供を襲う無数の手。王蟲よりも巨神兵よりも、話の通じない目も見えない大人達の方が怖かった。うようよすな!!!
・火の七日間の巨神兵
グチョグチョ形態よりもほぼシルエットで示されているあっちの方が何倍も怖い。
・ナウシカのおっぱいに関するネット記事の多さ
宮崎駿が言及してるからって書きすぎ。想像でカップ数まで書くなよ!
〆
そろそろ〆たい。この文字数に何時間かけてんだ。
とにもかくにも、ジブリ映画を「映画」として再認識する絶好にして唯一の機会であることは間違いない。上映している限り、何度も足を運ぶことになるだろう。映画として楽しめるうちに、幾度でも。2回目観た時は、ナウシカもまた違って観えるかもしれない。