映画:千と千尋の神隠し ~現代、親のいる子供が主人公になったわけ~
ジブリ再上映企画で「風の谷のナウシカ」そして「もののけ姫」を観てきた。初めて映画で観るジブリのアニメーションはとんでもなく面白く、幼い頃把握していたストーリーの100倍は奥深い物語を楽しむことが出来た。そして7/1に観てきたのは、私がジブリの中で最も舐めくさっていた作品
である。ナウシカの感想でも書いたが、これもまたぶっ飛ばされた。そしてナウシカもののけの後に観て良かったとも思った。光光太郎です。
贅沢な名だねぇ…今日からお前の名前は光(みつ)だ!
千尋は可愛くないと思ってきてたんですが、無茶苦茶可愛かったです
鑑賞後ツイート
言いたいことは殆どツイートしてるので、ブログでは改めて書きたいことだけ書きます。
千と千尋の神隠し、観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年7月1日
ナウシカ、もののけ姫のすぐ後にこれを観れて良かった。人と自然の共生、失われていく古の神々への視点がこれまでで一番優しくて、その変化に思わず泣いた。最後、また忘れ去られ幻として終わるのかと思いきや、確かに残ったものはある、一緒にいると示して終わる。号泣。
千尋はいい名前だと言われる。正に今作を表す名前だろう。雄大な地形を示す言葉であり、千が尋ねてくる、千を尋ねるとも読める。自然と出会いだ。https://t.co/2AeeNRxuXI
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年7月1日
ナウシカやもののけほどハッキリ打ち出してるわけじゃないが、今作も人と自然の関係を描いているのは間違いない。ただ過去作と明らかに違うのは、現代を舞台にして今を生きる子供達へ向けて作っていることだ。自然は失われてそのことすら忘れていく、いやそもそも知らないこどもの国達へ向けている。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年7月1日
昔には戻れないほど自然を破壊し尽くした世代が、その子供や孫へ「自然を大切にしろ!」と語る作品を作る矛盾に苦しんだのかは分からない。ただ、少ない自然すらも奪われていく世代へ向けていることは確かじゃないだろうか?
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年7月1日
ナウシカでの自然治癒と対立構造、もののけでのアニミズム文化表現と、人と自然の関係描写は激しい進化を続け痛みを伴う描写こみで描かれてきたが、千と千尋ではメッセージの送り先を変えたことで「たとえどうなったとしても一緒にある」という、ジブリとは思えない優しい帰着になったんだと思う。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年7月1日
千と千尋の神隠し、いい映画を観たという観賞後感が凄まじい。でも、きっとこれ単体で観たらこうはならなかったろう。ナウシカ、もののけと続けて観てきたからこそだ。唯一無二の体験だった、、、
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年7月1日
千尋とハクの関係性はもののけにおけるアシタカとサンのウルトラ発展系だよね。共に生きることは出来る!
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年7月1日
千と千尋の神隠しで号泣したところ
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2020年7月1日
・千尋が自分の名前を思い出し握り飯を食いまくるところ
・銭ババア邸でハクと再開
・ハクが名前を思い出すところ(スーパーマンのデートみたいな飛翔シーン)
・豚クイズに正解するとこ
・ラストの千尋の横顔と髪留め
現代、親のいる子供が主人公になったわけ
千と千尋の神隠しは、公開当時の現代日本から始まる物語である。つまり主人公少女である千尋は、今の日本を生きる子供なのだ。フィクション世界や過去日本の人物を描いてきた宮崎駿監督作品としては非常に珍しいため、どうしても意味づけを考えてしまう。そしてこれこそが、私が千と千尋の神隠しにぶっ飛ばされた最大の理由である。
手前勝手な推論になってしまうが、嫌になったらタブを消して欲しい。
結論から言えば、今作は明確に現代の少女をターゲットにしており、彼女達へ語る為にこの設定が必要だったのである。
制作のきっかけは、宮崎駿の個人的な友人である10歳の少女を喜ばせたいというものだった。この少女は日本テレビの映画プロデューサー、奥田誠治の娘であり、主人公千尋のモデルになった[10]。企画当時宮崎は、信州に持っている山小屋にジブリ関係者たちの娘を集め、年に一度合宿を開いていた。宮崎はまだ10歳前後の年齢の女子に向けた映画を作ったことがなく、そのため彼女たちに映画を送り届けたいと思うようになった(ウィキペディアより)
では、現代に生きる子供達へ届けるべきメッセージとは何なのか?最初観ているうちは「子供の成長」なのだろうと思っていたが、最後の最後でそれを「人と自然の関係性」で包み込むことになる。ここで特に語りたいのは後者だ。何故なら直近で観た風の谷のナウシカ、もののけ姫(以降”ナウもの”と略す)の流れを汲んでおり、その語り方の変化に号泣したから。
”ナウもの”からの変化
ナウものでは「人と自然の関係性」は対立構造となっていた。人対王蟲、人対土地神…ナウもの間でも差異はあるものの、双方傷つけ合う中でどう折り合いをつけるかというシリアス物語なのは共通している。宮崎駿のうねりにうねった怒りにも近い情念が迸りまくっているのも、鋭い批判を投げかけているのも、自己完結表現作品っぽいのも共通していると思う。ナウものは激しく、ビターな作品であり、メッセージの受け取り手は大人であろう。少なくとも、子供向けに作っているとは思えない。
対して千と千尋は前述した通り出発点が「子供への贈り物」であるため、いつも通りのテンションではやれない。人死やグロ描写を通してのドラマは描けない。作家怒りの自慰行為を見せていい相手ではない。しかしそれでも「人と自然の関係性」を選び、ナウもの以後の視点として、現代を舞台にした世界で語るためにアップデートして描いているのだ。
では現代とは何か。自然が失われた世界である。
ナウシカは荒廃しているものの自然再生の見込みがある、もののけは人間が自然を犯し始めた時期の話だが、現代(2001年当時)は既に環境破壊が進み自然復興は難しい段階にある。子供たちは自然が消滅していく時代に生まれ、失われた時に自ら生活していくことになる。
そんな現代を作ったのは誰か?千尋の親やそのまた親の世代だ。子供は先人たちが作り上げてしまった世界で生きるしか選択肢がない。両親が千尋の言うことに全く耳を貸さないことからも、子供に選択肢は無いことが分かる。(ちょっと逸れるが、千尋は最初本当に何もできない。すぐヘタレるし動けないし礼儀も知らない。豚になるほどモラルの無い親の元で育てられたからだろうか。キツイ批判である。)
親たちによって自然は破壊され、自分たちではどうすることも出来ないのに環境破壊を止めるような運動を求められる…そんな子供達に対して、正に親や祖父世代である宮崎駿が「自然と共に生きろ」などと言えるだろうか?自然を汚すのは止めましょうと言えるか?ナウものの様に語るのはお門違いであり、むごすぎる。
環境問題の変遷
https://www.teikokushoin.co.jp/journals/society/pdf/201102/09_hssobl_2011_02_s02a.pdf
いつも自然は共にある
今作が語る人と自然の関係性、それは「失われたとしても、共にあり続ける」というものだ。例え土地そのものが無くなったとしても、そこにいた神々はどこかにいるし、そこで過ごした日々は確かに人間と共にあると。当人が忘れていても確かに残っているものだと。人間が汚してもなお記憶として経験として共にい続けてくれるのが自然なのだという、ナウものから考えれば余りにも優しい帰着に、涙腺は耐えられなかった。ナウものからの変化を感じているからこそ、耐えられなかった。人間寄り過ぎる視点ではあるものの、現代の子供と自然とを対立させたくなかったのかもしれない。
湯屋に来るお客さん達は冒頭で語られるように八百万の神々、つまり自然である。千尋が湯屋で経験したこともまた、自然との交流であると言えるようになる。前述した通り、ラスト付近で自然との関係性に戻ってくるという構成にも、泣いた。
ラストのラスト、湯屋一堂に祝福されながら、成長した千尋はトンネルを抜けて現代へ戻る。すると、来た時とはトンネルの外観が異なっているのだ。もしかして、あそこでの出来事は夢だったんじゃないか?また失われてしまったんじゃないか?と思ったのもつかの間、そこには冒頭とは異なり強い意志を持つ千尋の顔と、銭婆から貰った髪留めが見えた。確かにあったし、今も一緒にいるのだ!!!と示して去ってすぐエンドクレジット。「成長」と「人と自然の関係性」をポジティブに語りきってからの見事すぎる幕切れ。本当に、ぶっ飛ばされた。
冒頭のトンネル外壁は赤色である
千尋の名前について
少しオマケ。
名前が非常に重要な意味を持つ今作において「千尋」という主人公の名前は、良い名前だと言われ続ける名前は何を意味するのか?
奪われる「尋」は、尋ねるという漢字である。音読みでは「じん」となり、水深を表現するのに用いられたそう。
長さや深さを表す尋に千がついて「千尋」となると、山の高さ、海や谷の深さを表現する言葉にもなる。自然の雄大さをたたえるような言葉だ。また、千尋は、千が訪ねる、千を尋ねる、ともとれる。湯屋で様々なものと出会い成長した千尋にピッタリだ。
思ったこと箇条書き
更にオマケ。
・クトゥルフ神話っぽい神々(顎に触手)
・親が豚になる
➡トラウマ。親が欲望に支配されて豚になり、あまつさえ暴力を受ける。こんな親は豚同然よ!というパヤオマインドなのかもしれんが、頼るべき存在が醜く変貌を遂げて助けてくれないというのは、本当に怖かったもんだ。
・千尋の体が透ける
➡自分を確立していない状況で頼れるものがいなくなり、自分の存在そのものが希薄になってしまっている?そんな彼女が「自分」を作っていく話。
・お父さんの車が左ハンドル
・湯屋では女性従業員が神々を洗うサービスを提供している
➡どうみてもソープであり、RDR2でもあった。
・おにぎり滅茶苦茶デカい
➡君の名は。のクソデカおにぎりはこれが元ネタか?
・壁ドンするハク
・リンだけが前掛けを腰に巻いている
➡つまり勤務中は…
※思い出し次第加筆する
〆
さてそろそろ〆る。
正直たとえこれを当時映画館で観たとしても、すげぇとは思っても感動することはなかったろう。ナウシカ、もののけと続けて観たことで作家宮崎駿の変化の軌跡を映画館で観てきたからこそ、感動が倍増したのだ。ジブリを舐めたままでいた自分を反省するとても良い機会になったので、今後もジブリ作品を復習していこうと思う…という旨を千と千尋鑑賞後すぐに母さんへ電話して伝えた。