光光太郎の趣味部屋

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ブルーピリオド7巻以降の話

※ブルーピリオド7巻以降のネタバレを含みますのでアニメだけで追いたい方、まだ読んでなくて楽しみにしている方には注意。

 

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ブルーピリオド9巻が1月21日に発売される。

ブルーピリオド(9) (アフタヌーンコミックス)

 

毎度毎度創作の殺意がこもった素晴らしい表紙だ…。

さて前回のブログではブルーピリオドという漫画の面白さについて書いたわけだが

bright-tarou.hatenablog.com

 

実は7巻以降、この面白さがかなり様変わりしていく。根本的な部分は以前から変わらずむしろ一貫しているのだが、明確に変わるのだ。

主人公矢口八虎の目下最大目標であった東京藝術大学受験は6巻で終わる。7巻以降は現役合格した彼の大学生活が始まるのだが、本当に6巻以前とは雰囲気が異なる。正直、7巻読んだ時はショックだった。じゃあつまらないのかと言えば、これがやはり面白く続きが気になってしょうがない。似た面白さの作品として挙げられるのは映画版の「何者」かもしれない。今回はブルーピリオド7巻以降、大学編について書いていきたいと思う。

 

 

困惑

前回のブログでブルーピリオドはカタルシスが得やすいスポコンフォーマットがあると書いたが、大学編ではこれがない。困った。ハッキリ言って7巻は八虎がとことん落ち込み続けるばかりで「上げ展開」がほぼ無い。これまでの積み重ねを全否定され、それでも食らいついて作ったものは見向きもされず周囲との実力差を痛感するばかり…マジでこれで1巻分終わる。


8巻やアフタヌーン最新話などを読んだ後改めて読み返したら、八虎の主観だからこそ「下げ」一辺倒に見えるものの実はそうではないし、最初から「大学編はこういう話です」とハッキリ明言していると分かったのだが(これから読む方は7巻冒頭から精神集中して読んでください)、初見では読了後に項垂れてしまった。では受験編とどう違ってショックを受けたのか?

 

ブルーピリオド(7) (アフタヌーンコミックス)

予備校講師の大場先生。受験編におけるカタルシス造成の立役者。

 

教師の不在

一番大きい変化は、付きっきりでサポートしてくれる教師がいないことだ。勿論八虎が進んだ油画科にも先生はいるが、受験編の先生達の様に手取り足取り教育する「教師」ではない。基本的に中間の相談と講評のみで、何が足りなくて何をすればこれを達成できると教えてくれるわけではない。

 

つまり受験編の、何かを乗り越えて認められるというカタルシスが無いのだ。ブルーピリオドは「良い教師もの」だなぁと思って読んでいた身としてはかなりショックだった…。8巻の猫屋敷教授によるスポコンフォーマットちょい復活が無ければ私は死んでいただろう。そしてそこでの会話から受験編と大学編との大きな違いが露になる(いや7巻からずっと言ってはいたんだけど八虎と一緒に気付けたのがこのタイミングだったのだ)。それは「課題」と「作品」との違いであり、ここにスポコンフォーマットを踏襲しなかった理由がある。

 

カンフー・パンダ (吹替版)

先生と弟子もののウルトラ大傑作。

 

「課題」と「作品」

教授達の放った「受験絵画は捨てろ」という言葉に八虎はショックを受ける。受験絵画というワードは受験編にも登場し、予備校教師はそれを死語だと言った。今は受験であっても小手先の技術でなんとかなる「課題」ではなく「作品」として見るからだと。ではブルーピリオドにおける「作品」とは何なのか?それは「自己表現」ではないだろうか。それも徹底的に考え抜かれ研ぎ澄まされて誰もかれもを圧倒してしまうような…。ここは8巻での猫屋敷教授の弁が最も分かりやすい。

 

君は渋谷で何を表現したいの?渋谷の何を?渋谷を何に表現したいの?渋谷を何で表現したいの?ソレを伝えるためにはどんな「思いつき」がピッタリくる?どんな描き方?どんなモチーフ?どんな素材?どんな大きさ?どこにどうやって置く?吟味して検証して繰り返して…君が選んだものが君の作品になるの

 

「絵を描きなさい」には絵という前提があるが、「作品を作りなさい」にはそれが無い。思えば受験編でも八虎はイメージ課題が苦手だった。課題に対して対応するのではなく、作りたいものを徹底的に考えて作る。勿論アイデア先行では駄目で裏付けするための、選択肢を増やすための知識も必要だ。そして彼は何度もこれを乗り越えているはずなのだが、それでもショックを受けてしまうのは何故か?それは認識のズレにあると思う。

 

ブルーピリオド(8) (アフタヌーンコミックス)

8巻の表紙を飾るのは大学編にて友人になる八雲。八虎を褒めてくれる癒し要因。君のおかげで私も救われた…。

 

認識ズレ

受験編での「受験絵画」という言葉は、ある一定の技術レベルに達していれば合格になるものという意味だが、大学編で教授が意図したかったのは「今までの自分」であると思う。

八虎は前者の「受かるための絵」だと思っているため落ち込むが、彼が作り上げてきた物も意図を込めて作った立派な「作品」だ。しかしそれを「作品」であるように伝える術がまだないだけで、縁の絵をはじめ見た人は「作品」と認識している。他の学生に負けない自己表現をしているのに…自己卑下しているだけ。そこに気付き彼が自信を持って「作品」を作ってプレゼンしたらどうなるのか…非常に楽しみだ。

 

大学で何をするのか?今後起こりうるカタルシス

結局の所大学編におけるカタルシス爆発のポイントは、八虎が自分に自信を持って作品を作れるかどうかだ。教授陣営が称賛を送ればそれはスカッとするが、そんなものはおまけに過ぎない。自分の感性、人生、考え方、技量全てをぶち込んで自分を表現する、叩きこむ!対応しか出来ない自分、嫉妬する自分、自己卑下する自分…それら全部を包括して完璧な理論武装で最強のアイデアで仕上げた自己表現を、早く見てみたい。そして、その絵で対話する相手は世田介君なのであろう…世田介君の地獄を救ってあげられるのは世田介君自身と八虎だけだ。

 

何者

何者になる為に大学へ行ったのか?大学で何がしたいのか?大学を通して何になりたいのか?自身について何度も自問自答して人生に向き合っていく話は痛々しくて最高に面白い。心が保てばな!!!!!

 

またつらつらと書いてしまった。そろそろ〆たい。

自分や自分の人生に向き合うことは本当に辛いが、傷つきながらでもほんの少し何かを確立できたのならそれはきっと得難い財産になる。ここまでの事をいざ光光太郎自身がやるとなると非常にきついが、だからこそブルーピリオドの様な物語に寄り添ってもらうと勇気が出る。自分らしくあることで社会の中で勝ち抜いていこうという気持ちにさせてくれる。まぁ。同時にそうできずに逃げ続けている心にナイフを突き立て続ける作品でもあるのだが…(笑)。