光光太郎の趣味部屋

Twitter感覚で趣味や心情、言いたいことをつらつらと。

映画:フリー・ガイ

モブキャラが主人公!という謳い文句でもう観るのに決めてたが、ライアン・レイノルズのブルーシャツの着こなしにも惹かれたので観た。最高!!!!


ゲームプログラムが自我を持ったら系SFでこんな善きこと映画が出来るなんて!しかもやってること殆ど「ゼイリブ」なのに明るく楽しく、それでいて大筋はロマコメなのがいい。きっかけがあれば自分も変わるし世界も変わる。今だからこそそれを信じたいじゃない。最高だった!

どうせ仮想世界のことでしょまやかしでしょ論も出るしカウンターも新鮮味はないが真摯だし、それを真実だと信じきりたいという演出が何重にもなされてるから、こっちも信じてみたくなる。



フリー・ガイのフリー・シティについて
ミリー達が作ったライフ・イット・セルフのデータはどこまで盗用されているのか?描写を見る限りフィールドデータやキャラクターデータ、行動パターンの一部は使われているらしい。ガイが自我に目覚めるトリガーはそのまま使われている。コーヒー屋のお姉さんも目覚めかけていることから、ガイ以外のNPCにもトリガーはあると思われる。元のフィールドから海を隔てて街があるということは、拡張して作ったんだろうか。つまり、ライフ・イット・セルフの基本システムはそのままに、そこをロックして要素を足しフリー・シティに見せているだけなのだろうか?NPCの面々もライフ・イット・セルフのプログラムを応用して作られたのか。とすれば「スッカラカン」のデュードにもある程度自己判断能力があったのか?


デュードにはライフ・イット・セルフのキャラクターデータがどれだけ流用されているんだろうか。技術に明るくないから分からんけど、ゲームに存在して活動する以上流用は確実にされてるはず。
問題は彼が成長するAIなのかどうかだ。根幹のシステムだから完成度低いプログラムでも実装されているのか、それとも動くだけで成長はしないのか?

俺は、成長はしないプログラムだったんじゃないか?と思う。スナミがぶちこんだ、都合でしかないおざなりなキャラクターでも「きっかけ」があれば気付くし変われる。ある意味でガイやあの街のキャラクター以上に希望を与えてくれるやつなのかもしれない。SFなんだから、そう考えたいよ。デュード、大好きだよ。



フリー・ガイはきっかけと気付きの映画だ。他のNPCも、ミリー達も、世界中のプレイヤー達も、勿論観客も、何かをきっかけにして気付き行動している。その連鎖を重くもセンチにも描かず軽快なコメディとしてやってのけるのがいいじゃない。
ガイのきっかけはサングラス、、じゃなくてミリーだった。プログラムだと知って一時期自暴自棄になるけど、最終的にはプログラムであることを自覚した上でミリーへと言葉を送っている。男だぜ、ガイ。

バディ(すげぇ名前)はサングラスをかけないが、ガイを助けたい一心で行動が変わる。彼とガイの再開がミリー達のロマンティックシーンと全く同じ構図なのには笑いながら泣いた。

コーヒー屋の姉さんはガイのいつもと違うオーダーだよね。そっから他にも作ってみたいと思い出す。

ミリーやキーズのきっかけは言うまでもなくガイだ。しかし他のプレイヤー達にとってもガイは「NPCの生活に思いを馳せる」きっかけを与えている。更に彼らの放送が、リスナーへと気付きを与えているだろう。

デュードはシンプルにサングラスかけて世界の見え方が変わったことだ。面白いこといっぱいある!と分かればやりたいことやりたくなるよね。


そんなこんなの気付きの連鎖も、最初はキーズからミリーへのコード・ラブレターだったわけ。コードの作家だもんね。結局巡りめぐってプラトニックな愛に行きつくロマコメラブコメなのがねーーーーいいっすよ。SFだ善きことだと重くしない軽やかさの理由はこれだよ。

ただねぇ、ガイが善行だと思ってやってることが完全に自己満足な上に倫理観がゲーム世界だからかチグハグなのにはひきつり笑いを起こしたね。助けたけど死んだ!いな○浸し!