映画:ブラックパンサー ~悩んで悩んで、変身!~
こんにちは。光光太郎です。
「アベンジャーズ/エンドゲーム」3回観ましたが、その度に見返したいと思う作品が異なりますね。てなもんで今回は劇場鑑賞時以来の鑑賞となった
の感想をサクッと書きたい。エンドゲームの後にTVで観て、評価がかなり上がった。
※この記事にはエンドゲームのネタバレが含まれているので、未見の人は注意!!!
■感想ツイート
ブラックパンサー吹替で観てるけど、最高だな……エンドゲームを経て評価が爆上がりしている。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ブラックパンサー、TVで観るとCG感が薄れるな。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ブラックパンサー、吹替も素晴らしいんだけど、やはり原語で訛りを堪能すべき映画だわな。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ブラックパンサー吹替、滅茶苦茶面白かった。公開時と比べて「どう見ればいいか?」が分かってたし「ヴィヴラニウム持ちすぎズルくね?」ってやっかみも無くなったし。なによりもインフィニティウォーやエンドゲームへ連なるテーマを素直に受け止められた。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ブラックパンサー、面白かったんだけどやっぱり韓国編が面白すぎるんだよな……ワカンダ決戦は思想対決であって、アクションでの新鮮な見せ場は意外と少ない。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
ガジェット紹介の楽しさや「変身!」のカタルシスを上回る感動が、終盤はあまりない。少なくとも、お話と映像がリンクしての見せ場はかなり目減りする。でもテーマは好きだしキルモンガーがカッコよすぎるのでよし!
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年5月3日
■劇場鑑賞時のツイート
この時は「シェイプオブウォーター」→「ブラックパンサー」→「15時17分、パリ行き」の3本立てだったなぁ…。
「ブラックパンサー」
— 光光太郎 (@bright_tarou) March 1, 2018
頭のいい人が会議室で話し合って作った非常にお行儀のいい映画って印象。
「ブラックパンサー」
— 光光太郎 (@bright_tarou) March 1, 2018
基本的に会話劇や演説劇なので、物語と映像が結び付くカタルシスに乏しい。なのでやはり綺麗事が先行してしまう。これが本当にクリードを撮った人の演出なのか……。
■初の黒人ヒーロー、ブラックパンサー
マーベルコミックにブラックパンサーが登場したのは1966年。公民権運動の高まりに呼応するかの様に現れた、初のアフリカ系、黒人ヒーローだ。ファンタスティック・フォーの面々を1人で圧倒する戦闘力と知略を持つ、伝統と先進技術が融合した国家ワカンダの国王でもある。
彼の人気を皮切りにしてファルコンやルーク・ケイジといった、非白人系ヒーロー達が生まれていく。現マーベルコミックの多種多様な人種構成の発端は、ブラックパンサーであると言える。
ここら辺はHuluの「アメコミヒーロー大全」に詳しいので、是非観て欲しい。ブラックパンサーだけでなく、様々なヒーロー達の誕生と人気の変遷をアメリカ現代史と紐づけて語られていく傑作ドキュメンタリーだ。
黒人の方々を勇気づけてきたヒーロー、ブラックパンサーは昨年MCUに参上した。
しかしそこで描かれたのは差別に立ち向かうヒーローではなく、差別を無視してきた歴史に直面し苦悩する王の物語だった。ここにこそ、今作がブラックスプロイテーション映画を超えて、全世界で指示された要因があると思う。
■自国を守るか?他国を救うか?
ワカンダは地球最強の鉱石ヴィヴラニウムの鉱脈を有した超技術大国となっているが、他者による力の悪用を恐れて技術を秘匿し、対外的には農耕国家として振舞っている。ティチャラもまた国を守るため伝統に倣って秘匿主義を貫き、ワカンダの力を他国や難民の為に、他者の為に使おうとはしていません。
そこに異を唱えるのが、今作のヴィランであるキルモンガー。彼はアフリカ系や移民たち、今現在虐げられている人々を救うための侵略戦争にこそワカンダの力を使うべきだと主張する。侵略という手段を取っているのは全く賛同できませんが「他者を救う力があるのなら行使すべき」という主張には頷けます。また、彼の父親はワカンダの秘密を守るための犠牲として殺されていましたが、ワカンダへの復讐よりも「自分と同じ境遇にある者を救う」ことを選択をしています。キルモンガーは単に国を乗っ取る悪役ではなく、王としてティチャラと相対するヴィランなわけです。
伝統によって虐げられた存在、ワカンダが犯してきた罪の権化であるキルモンガー。彼は最終的にティチャラに敗れますが、その精神性は引き継がれ、ワカンダは国粋主義を辞めて国際社会に貢献することを決めます。
見て見ぬふりを辞め、他国と協調し貢献していく…インフィニティウォーの前作がブラックパンサーである理由がよく分かりますね。行き過ぎたナショナリズムを今のアメリカで描くという意義も凄いし、それを黒人国家で表現するのもチャレンジング。肌の色も人種も関係なく、思想による分断を行わず、力を提供し合って協力していく…エンドゲームを経たからこそ、このテーマの力強さが分かる様になりました。
ワカンダの協力がなければインフィニティウォーでの抵抗も出来なかった…
■面白さの7割を担う韓国シーケンス
まぁ難しい話はともかく、韓国までのシーン!韓国までのシーンが最高に面白いんですよ!ぶっちゃけここ以降、映像的に感動した場面はない!!(ツイートでも言った通り、思想対決になるので…それでも映像と思想とをリンクさせてほしかった…)
まずは準備。新スーツのお披露目が素晴らしいのは勿論のこと、あのナノテクスニーカーのセンスオブワンダーよ!ナノテクによる3D通信にもワクワク。ブラックパンサーは本当にガジェット周りが魅力的です。
んで、韓国でのチェイスシーン。正しく「変身!」というに相応しい、走りながらのスーツ装着からのバク転&着地のカッコよさ!!ここはストーリーも映像も動き始める場面なので、映画的高揚感も堪らないのです。また、妹であるシュリが遠隔操縦するレクサス(車もカッコよければ遠隔操縦装置も最高)の上に着地するので、まるでサイドキックとの共闘の様に見えるのも熱い。もうこのシーンを観れただけでもブラックパンサーは最高なのです。
そこからのカーチェイスシーンは韓国の夜景の美しさと車の美しさが相まって、思わず見惚れてしまう。ドレスを傍目かせて槍を構えるオコエに惚れろ!
サントラもいいねぇ
■不満点
基本的に楽しく観れた再鑑賞だったが、やはり劇場鑑賞時から抱いていた不満点は拭えない。
まずはテーマ的な部分。ワカンダは最後開国を選んだわけだが、正直あのヴィヴラニウム技術を他国へ提供するヴィジョンが全く分からなかった。SFレベルの超技術を際限なく提供してはそれこそ戦争の火種になるし、そもそも交渉時のパワーバランスも圧倒的にワカンダが上である以上、結局の所ワカンダの決定1つで地球の情勢が左右されてしまうことになるのではないか?「俺たちは超国家なんだぜ?」みたいなドヤ顔で終わるのではなく、技術提供の結果を1つでも見せて欲しかった。ここはインフィニティウォーを経ても解消されなかったな…。
次は映像面。前述した通り後半に行くにつれて映像的な見せ場は減っていく。キルモンガーとの決戦も暗くて見辛い鉱内が舞台だし、そもそもキルモンガースーツとブラックパンサースーツが非常に似ている(もともとどちらもティチャラ用に作られていた)ので肉弾戦をしていると更に分かりづらい。韓国では夜のシーンでも非常に見やすく作られていたのでより残念さが際立つ。
でもまぁ…変身!シーンが超カッコいいのでOK!!!!!!!!
■〆
そろそろ〆だ。
エンドゲーム以降もMCUの中核を担っていくであろうブラックパンサー。今後はワカンダと他国との交流、世界の問題に対してワカンダやブラックパンサーがどう向き合っていくかを観てみたい。MCUの中でも国家そのものを扱える物語なのだから。ソーはどっか行っちゃたからね(笑)。
映画:E.T. ~可愛くてずるいよ!~
れいわ~~~!光光太郎です。
5月3日から午前十時の映画祭、上映作品が切り替わるようで。
スピルバーグ祭りラストの2週。
というわけで今回は、先日映画館にて観てきた
の感想を綴っていきたいと思います。昔からDVDやVHSで観てて、ちょっと世評が高すぎやしないか?と疑ってましたが、前言撤回。こんな素晴らしく「ズルい」映画はないっす。
■感想後ツイート
E.T.観た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
泣いたよ。泣いた。完敗。E.T可愛すぎ。
E.T.、ヨチヨチ歩きの宇宙人が可愛すぎる。あんなのズルいよ。ズルすぎ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
E.T.、目撃する映画、驚く映画として無茶苦茶良かった…!未知との遭遇より全然好き。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
E.T.、この映画自体が子供達に対するE.T.的存在なんだね。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
E.T.って5分に1回E.T.の可愛いシーン、笑っちゃうシーンがあるんじゃねぇかって位、ほんとE.T.が魅力的だった。あんなシワクチャで、最初は逆光で殆ど詳細見えないのに、それでも可愛いんだもん。ズルいよ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月19日
■ロジカルに組み上げられた可愛さ
こんなのが可愛いわけないだろ!と思ってましたよ。映画館で観るまではね。
「E.T.」とにかく冒頭から最後までE.T.が可愛すぎる。いや、見た目はキモイんだが、可愛い所作とコントによって犬猫も霞む可愛さになるのだ。いや、今作では犬もいいけどね。
大林宣彦監督は過去に「E.T.は、スピルバーグがアマチュアではなくプロになってしまった作品である」と語っていたが、この可愛さ演出をして言っているのではないだろうか。同じく映画祭で観た「未知との遭遇」はコドモ大人へのメッセージや映画手法をとにかくぶち込んでやる!!という意気込みが前に出まくっていましたが、今作はとにもかくにも観客目線が第一になっている気がします。
「未知との遭遇」の感想。UFOの話しかしてません。
まずは所作について。冒頭最初、彼らはヨチヨチ歩きをする。というかずっとヨチヨチ歩きだ。体を左右に揺らして、短い脚を動かして歩く。これはペンギンや幼児の歩き方に似ています。可愛いわけですよ…。
シワシワで年老いたようにも見える異星人が、庇護欲を掻き立てる動くをするという幾重にも絡んだギャップも可愛さの一因でしょう。
続いて演出。スピルバーグ監督は映画の鬼なので、単に「可愛いやつ」を出すわけがない。映し方で、間で、状況で、台詞の掛け合いで…あくまでも映画として可愛さを作りだしています。基本的なカルチャーギャップコメディだけでは終わらない。
上記全てを兼ね備えた白眉シーンはE.T.とお母さん、妹とのリビングコント。スラップスティックコメディとして抜群に面白い。
映像で分かるのは、スクリーンにばっちり映っているのにE.T.が絶妙に見えていないお母さんだ。バレるかバレないかハラハラと一体の笑い。お母さんが開けた冷蔵庫のドアにどつかれて倒れるE.T.も可笑しく可愛いし、頓珍漢なことを言う妹の台詞にもやられる。
さらりと書いたがここには、状況を分かっている観客と全く気付いていないお母さんとの関係、「分かっていつつも分からない」妹というツイスト、我を貫くE.T.という隠し味によって、関係性のドタバタ感が複雑になっていく。観客が三者全員にツッコめるのだ。これは映像ではなく物語作り、ここのギャグに至るまでの前振りが上手いからこそだろう。
つまりリビングコントは、映像と物語両面から緻密に組み上げられたスラップスティックコメディシーンなのだ。映画で笑わせるってこういうことだろ?一切意に介さないE.T.可愛いだろ?と直球ストレートを投げてくるスピルバーグに三振を捧げるしかない。
このほかにも、笑いと可愛さが奇襲してくるシーンが5分に1回以上挟まれるので、全く飽きずに観ることが出来る。特にハロウィン辺りからは30秒に1回笑う。ルーカスへの気の利いたギャグもあるしね。
■「分かりやすい」ジュブナイル
今作は少年がとある事件や出会いをきっかけにして自己と向き合い成長する、ジュブナイルストーリーです。ここを懇切丁寧に、メインターゲットである子供たちがすんなりと受け止められるような「分かりやすい」筋立てにしています。私は本当に「分かりやすい」話が好きでね…。
主人公エリオット君は両親の離婚により「父親」がいません。精神の依存先がいない、と言い換えてもいいでしょう。これは彼の兄も同様です。これにどう向き合うか?がキモなわけです。
E.T.を匿うことによって彼らは疑似的な父親、保護者を演じていきます。自分がE.T.を守るんだ!という意気込みを実行していくことで自立心が芽生えていきますが、実はそれこそE.T.に依存しているのだと終盤で突きつけられます。ここで疑似親子関係が逆転し、E.T.が父親のような「かけがえのない大きな存在」だと強調されるんですね。
そしてラスト。迎えに来た宇宙船(「未知との遭遇」とは全く方向性が違うファンタジックな、抽象的な、寓話的なデザイン)に乗り込む前、E.T.はエリオットを宇宙へと誘いますが、エリオットは地球に残ることを、E.T.と別れることを選択します。依存ではなく自立を、いない存在ではなくそばにいる家族を選択したエリオットに対してE.T.は「イツモ…ココ二…イルヨ」と言い、去っていく…。映画は見送るエリオットの顔で終わりますが、そこには幼い子供ではなく、強い意志を持った「男」の表情がありました。
依存から自立へと至った見事な筋立て、そしてその思い出には尊い価値があり常に共にあるのだと示し切った、これ以上ないほどサービスに溢れたハッピーエンド。私としては「アリガトウ…」というE.T.に対して兄貴が「僕の方こそだよ…」と返すのも刺さりますね…。彼にとっても、E.T.との思い出はかけがえのないものになったでしょう。
そしてこの「E.T.」という映画自体が、観客にとってのE.T.的存在になっていると。あまりにも見事すぎる完成度に、諸手を挙げるしかない。
■〆
可愛さや笑いや感動を説明するという愚行をここら辺で終わりにしたい(笑)。
とにもかくにも「映画の面白さ」が詰まりきった名作だ。そして「憧れ」を描く上で最重要な「目撃して感激する人々の表情」を入れているところも本当に素晴らしい。ヒーロー映画やファンタジー映画、ホラー映画はここが重要なのよ!泣きポイント!!!
ってなわけで、午前十時の映画祭で、是非「E.T.」を観てくれ!!!!ネットフリックスでも観れるよ。
映画:「アベンジャーズ/エンドゲーム」についてヒナタカさんと話したよ+補足つらつら
こんにちは。光光太郎です。
去る4月26日、遂に全世界待望の作品
アベンジャーズ/エンドゲーム
が公開された!!
寒雨の中自転車に乗り、朝一発目の回で観ました。TOHOシネマズ仙台6番シアターはほぼ満員。
…まぁネタバレ無しではこれ位しか話せないわけです。なんせ友人からも「肯定にせよ否定にせよ、感想を言いやがったら絶交する」と言われるほど、MCU好きのエンドゲームへの思いは強いのですから。
しかし!これを観て何も話さないというのは健康に害を及ぼすので、インフィニティウォーから引き続き、映画ライターのヒナタカさんとお話させて頂きました。
ってなわけで、ここからはネタバレ有りの話をバンバンしていくぜ!!!!
てか観てない人はこんな記事読む前に早く観に行ってくれ!有給でも取って!!!!
因みにインフィニティウォーの話はこちらで。
いやほんと、お声がけしてもらわなければ悶々として死んでいたかもしれん。
■エンドゲームに纏わるツイート
こんなの観たことないぜ…明日の東宝仙台は戦争じゃ…。 pic.twitter.com/p7MFKyc8eL
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月25日
東宝仙台にアベンジャーズ参戦! pic.twitter.com/5huPiRLtTZ
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
写真撮らせてください!と頼んだらむしろ貸すよと言われ…! pic.twitter.com/KL9Gew1KOH
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
TOHOシネマズ仙台、MC好き達が渦巻いてとんでもなく「尊い」空間が生まれている。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
エンドゲーム吹替、最高だった。宮迫博之、あんたすげぇよ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
■「アベンジャーズ」の意味を変えたMCU
MCUは「アベンジャーズ」という言葉を作った。全世界共通の、MCUを観た人なら誰もが分かる概念を言葉にしてくれた。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
Avengersの「Avenge」とは本来、復讐するとか仇を討つという意味。なのでアベンジャーズは「復讐者たち」となるはず。
しかしMCUは数々の映画によって、アベンジャーズ=ヒーローチームという意味を世界中に根付かせました。また、映画「アベンジャーズ」の中で印象的なチームアップシーンを引き合いにし、集合場面を指してアベンジャーズとする用法も一般的になってきたと思います。これはJAWS=サメ、ALIEN=宇宙生命体という、単語の持つ意味を映画が変えてしまった前例に匹敵するでしょう。
エンドゲームは、更に意味を書き換えました。あの大集合シーン、そして満を持しての台詞により、アベンジャーズ=団結する人々へと発展させたのです。特別なヒーローが集う集団がアベンジャーズなのではなく、団結し立ち向かう者達全てがアベンジャーズなのだと。人種も生まれも性別も年齢も関係なく、団結する者が。
これは「エイジオブウルトロン」でもホークアイによって示されたことですが、エンドゲームではそれを全宇宙規模でやっているので、より強調されています。
MCUという神話の意義深さを象徴する言葉が、アベンジャーズなのです。
■変化と絶対、現代アメリカの神話
エンドゲームで象徴的に、繰り返し示されるのは「変化するヒーロー達」と「唯一絶対を自称するサノス」です。これはインフィニティウォーでも何度も提示された「犠牲を払うかどうか?」によく似た対比構造だと思います。
髭をそるキャップ、髪が地毛に戻りつつあるブラック・ウィドウ、太ったソー、ハルクと融合したバナー博士、そして家庭を持ったトニー…アベンジャーズ側はほぼ全員が劇中で何かしら、身体的にせよ精神的にせよ変化します。MCU11年の歴史を鑑みても同じでしょう。皆全て、善悪関係なく「変化」してきました。
ではサノスはどうなのか?彼は徹頭徹尾、自分の信念を曲げなかった。宇宙の命を公平に半分にすることで、平穏を作る…この夢の成就の為にMCU全作品を通して様々な陰謀を巡らせます。これはエンドゲームでも全く変わりません。絶対の存在だから。インフィニティウォーでは、何を犠牲にしても突き進むサノスに、アベンジャーズ達は同じく犠牲を払うものの負ける。
では、何故今回は勝てたのか?彼自身が作った疑似インフィニティガントレットから、アイアンマンスーツの手にインフィニティストーンを移したから勝てた。恐らく、そういう機能を元から組み込んでいたのだろう。
台詞でも示されている通り、サノスは絶対だから負け、トニーはアイアンマンだからこそ勝てた。アイアンマンはトニーそのもの、自己反省と試行錯誤を繰り返し、他者の為に命を懸ける。変化を決意し変化を受け入れ、変化に挑み続けた彼だからこそ、サノスに勝てたのだ。
いや、勝ったのはトニーだけではない。MCUのヒーロー達は様々な困難にぶつかり、そのたびに変化し乗り越えてきた。時には変化によって対立もした。死別も経験した。でもそれでも、正しいことの為に変わろうとし続けた。この「変化」があればこそ、地球だけでなく銀河中の人々と絆ができ、大集合に繋がったのだと思う。そしてあの掛け声を発するのは、時代に取り残されながらも変化しようともがき続けたキャプテンアメリカ、スティーブ・ロジャースなのだ。
サノスは自分の理想のみを信じ、他者を信じなかった。そこに変化は訪れない。
アベンジャーズ達は過ちを犯しながらも正しさを求めて変化し続けた。団結が生まれた。
独りよがりの独裁者に、宇宙を平和にできるわけがない。
足かけ11年。アメリカの11年間と共に歩き続け、社会を見つめ続けたMCUだから描けた、現代の神話、寓話がここにある。
■映画の黄金期
映画の黄金時代は、新時代の映画黄金時代は、今この時にこそある!!!と確信した1日だった。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
映画史どころではない、娯楽史に残るアルティメット大作を、そこに連なる作品群をリアルタイムで追ってきたことを、今の時代を生きる映画ファンは大いに誇ってほしい。われわれは正に、映画の黄金時代を目撃しているのだ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月26日
映画の歴史は100年以上。その黄金期は20年代とも40年代とも、はたまた60年代、70年代とも言われる。今映画ファンをしていると、映画の黄金期は過ぎ去ったという論調をよく聞くことがあるし、実際そうかもしれない…と思ってしまうこともある。
しかし、エンドゲームを観てそんな考えは吹っ飛んだ。映画の新しい黄金期は、正にこの瞬間なのだと!
11年間絶え間なく作られ続けた映画シリーズがあったか?
その大半が内容的にも興行的にも大ヒットした映画シリーズがあったか?
高尚過ぎず気を衒わずに娯楽に徹し、ヒーロー論を語る映画シリーズがあったか?
現代アメリカ、世界情勢を取り入れつつ多様な物語を展開し続けた映画シリーズがあったか?
これらを成し遂げたのが、マーベル・シネマティック・ユニバースであり、その(一応の)締めくくりとして打ち出されたのがエンドゲームなのだ。この伝説を目撃できていることに、心から感謝したい。
映画:ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス 〜当たり前を大切に思えるヒーロー達〜
こんにちは。光光太郎です。
今回は「アベンジャーズ エンドゲーム」へに向けた振り返りとして、前ブログからMCU映画感想記事をお引っ越しです。
それではそれでは
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お久しぶりです。
光光太郎です。
大学卒業してからパソコンがなくなったので、これからはスマホで細々と更新していこうと思います。サクッと意見を残していこうかと。
今回は最近公開された傑作ヒーロー映画
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス
原題【Guardians of the Galaxy Vol. 2】
の感想を書いていきたいと思います。前作も最高だったけど、今回はその100倍面白かったですよ。前作を鑑賞してから行くと面白さが1000倍になるので、事前に予習することをオススメします。
◼あらすじと解説
「アベンジャーズ」シリーズに代表されるマーベル・シネマティック・ユニバースの一作で、お尋ね者たちが成り行きでチームを結成し、銀河の危機を救う羽目になる姿を描いたアクションアドベンチャー「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のシリーズ第2作。スター・ロードを自称するいい加減なリーダー、ピーター・クイルを筆頭に、美しき暗殺者のガモーラ、毒舌なアライグマのロケット、樹木型ヒューマノイドで25センチまで再生したグルート、マッチョな破壊王ドラックスのガーディアンズの面々が、新たな危機に直面し、再び強大な敵と立ち向かうことになる様を描く。高慢な指導者アイーシャが率いる黄金の惑星で、小遣い稼ぎの仕事をこなしたガーディアンズ。しかし、ひょんなことからアイーシャを怒らせてしまい、追われる身に。危機に陥った彼らの前に、ピーターの父親だという謎の男エゴが現れるが……。クリス・プラット、ゾーイ・サルダナら前作からのキャスト陣に加え、ピーターの父エゴを演じるカート・ラッセルのほか、シルベスター・スタローンも参戦。監督・脚本も前作と同じジェームズ・ガン。(映画.comより引用)
◼前作とは?
原題からも分かる通り、今作は「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」(以下GoG)の続編です。MCU(マーベルシネマティックユニバース)の中の1作でもありますが、ユニバース関連を考えずとも面白く観れるのがGoGの大きな魅力でした。それは続編である「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」(以下リミックス)も同様です。
前作の特徴としては
・70〜80年代ポップミュージックの流れるSF
・カラフルな宇宙観
・コメディタッチの会話
等が挙げられますが、私が最も打ちのめされたのは「仲間とはなんなのか?」を見事に映像化した決戦シーンですね。敵を倒すためではなく、ただ痛みを分かち合うために手を繋ぎ合う彼らの姿に何度涙を流したことか……。
その後の「Ain't No Mountain High Enough」が流れるシーンも最高で、等身大のヒーローとは何なのかがよく分かります。スーパーパワーがあろうがなかろうが、助けを求める仲間がいるならどこへだって駆けつける。
「助けを求める時、どこへでも駆けつける」というヒーロー観は、昨年の「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」の終盤でも示されていましたね。将来のインフィニティ・ウォーにて共闘するであろう彼らとの共通点を見いだせたようで、感動していた覚えがあります。
長くなってしまいましたが、GoGの大きな魅力は
いかしたポップミュージックとSFで彩られた、等身大ヒーローに纏わる寓話
であることです。この寓話性が、リミックスではより強調されていました。それでは、今作の感想へと移ります。
■センスオブワンダーなSF&SF
1つめのSFは「サイエンスフィクション」です。
「暮らし再現映像投射機」「超強力マグネット」「宇宙活動用マスク」等々、GoGでは魅力的なメカニックが数多く登場していましたが、リミックスでは「機械修復スプレー」「携帯型宇宙服&飛行装置」「真空防止レーザー障壁」「船外活動用ワイヤー」「重力変換地雷」「義手」といった、更に更にワクワクするメカニックが登場していました。
これらのメカニック達は詳しく説明されることはなく、あからさまに目立つということもありません。例えば「機械修復スプレー」の登場は一瞬ですし、「携帯型宇宙服&飛行装置」の存在が語られる初シーンでは「あれを付けると乳首が痛い」という会話のネタにされているだけで、どういうモノなのかは一切説明されません。
つまり、メカはあくまでも日常に存在する道具に過ぎないという描き方なんですね。技術を特別なもの=異物として扱わせないからこそ、ワクワクする技術が当たり前にある世界を信じることが出来ます。
メカ好きとして非常に面倒くさいことを言いますと、メカそのものが好き!最高!超目立たせるから!最強だぜ!!!という表現よりも、メカを日用品として扱う状況描写が好き!という場合があるんですよ。リミックスは完全に後者であって「機動警察パトレイバー」好きな人には堪らない映画だと思います。
敢えて1つ、大好きなメカを選ぶならば「機械修復スプレー」。ナノマシンによる機械修復のようには全く見えず、まるで魔法のように壊れたミラノ号の船内を直していく描写はまさにセンスオブワンダー!あんな映像初めて観ましたよ。あれぞSFのメカニック!!!
2つめのSFは「スペースファンタジー」。
リミックスのポスターアートはGoGのものと比べても非常に色鮮やかになっていて、極彩色のてんこ盛り宇宙ポスターにはドギツさを感じる程でした。
そして、そのドギツさそのまんまな宇宙が本編では描かれていたんですねぇ……最高!!あそこはスターウォーズやスタートレック等の宇宙とは全く異なる、エンタメ中毒のビッグバンが創造したコミック・ギャラクシーなんですよ!
まず冒頭に登場するソヴリンからして、惑星の形がどうかしてます。おせちに入ってる赤いお捻りのアレみたいな形です。金ぴかソヴリン人も正にコミックキャラクターといった出で立ちで、意図的にメイクっぽくしていたように思えます。
そして何よりも、エゴの惑星ですよね。表面にしても内部空間にしてもセンスオブワンダーの塊でした。彼のナルシスティックさと孤独さがよく表されていて、物語を形作る上でも素晴らしい存在であったと言えるでしょう。
もうひとつ特筆するならば、スピーディーなワープですね。あれは画期的な発明でしょう。
ドラマやキャラクターだけでなく、宇宙そのものに惹かれてこそのSFですよね!リミックスは最高の娯楽映画にして、最高のビジュアルSF映画です。
■悪趣味センス爆裂な映像
GoGやリミックスの監督であるジェームズ・ガンは、元々トロマ・エンターテイメントという悪趣味お下劣映画を作る会社に所属していました。彼の傑作である「スーパー!」を観ると、その悪趣味演出をたっぷり拝むことが出来ます。
GoGではかなり抑え目でしたが、リミックスではタガが外れたかのように悪趣味演出下ネタ台詞のオンパレードに。う◯こやゲロネタは当たり前で、下半身ネタもてんこ盛り。
特にやり過ぎなのは「指」と「ワープ」と「ポップミュージックを流しての大殺戮」でしょうね。本当に酷い…。まぁ、劇場は大爆笑でしたけどね。
■寓話性
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのシリーズは、広大な銀河を舞台にした活劇です。我々が住む世界とは全く異なるように見えますが、そういった舞台で描かれるドラマの方が、スッと心に入ってくる場合があります。現実に則していない分、表現が極端な分、ちょっとした動作や言動が際立ち、キャラクターの心情が分かりやすくなるのだと思います。
例えばガモーラ。
彼女はエゴの星にあるシャボン玉の美しさに魅せられ、触れようとしますが、すんでのところで手を引いてしまいます。ここから、自分が求めるものにいつも一歩下がってしまう彼女の様子が分かります。演じるゾーイ・サルダナさんもインタビューで仰っていましたが、年上のお姉さんポジションでいようとする気持ちと、過去の罪の意識とが相まって、仲間を大切に思っていても素直になれないのでしょう。
そして、今回のドラマに大きく関わる、ピーターの父親であるエゴ。彼と対比する存在として、ドラックスとヨンドゥがいましたね。
エゴは様々な星の生物と愛し合っていました。恐らく、その愛は本物だったのでしょう。しかし、彼は他者に対するリスペクトの姿勢、謙虚さが欠けており、他生物が抱く「当たり前の幸せ」を思いやることが出来ませんでした。対してドラックスは、価値観も見た目も異なるマンティスに対して「謙虚」に接し、彼女に対して真摯に向き合います。彼女が抱く「当たり前の気持ち」を、ドラックスは決して否定しませんし、軽視することもありません。(確かロケットのことも終始名前で呼んでいたはず➡ロケットは動物呼ばわりされるのが大嫌い)
エゴはピーターの父親でしたが、ヨンドゥは育ての親。エゴがピーターに対して抱いていた愛情は自分本意なものであり、ピーターが裏切った際にはあっさりと情を捨て、卑劣な手段を用いて服従を強います。対してヨンドゥは、ピーターが何度自分を裏切ろうとも決して見捨てず、不器用な愛情を持って向き合い続けました。ヨンドゥがピーターに向ける愛情には、エゴイスティックさなどは欠片も無かったでしょう。
………書きたいことを書いていたらとっちらかってきましたが、とにかくここで言いたいのは、ぶっ飛んだフィクション物語の中でこそ、ノンフィクションな我々の世界の真実を垣間見ることが出来るということなんです。
・相手の「当たり前の幸せ」を尊重すること
・どんな理由があっても心を踏みにじってはいけないこと
・どんなに言い争いをしても家族の絆は絶ちきれないこと
・ほんの小さな仕草にも心が表れていること
・音楽は最高!
こういった、面と向かって言うと全く心に入らない「良いこと」を心の底から信じさせてくれる…自分の行動を変えようという気持ちにさせてくれるからこそ物語は素晴らしいし、真っ向から描けるヒーロー物語に魅せられ続けるのだと思います。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」は、誰に勧めても、誰に対して話しても恥ずかしくない、本当に素晴らしい映画でした…。
(リミックスを観た日の夜は家族に電話しました。)
◼残念感想
今回残念に感じたポイントは次の3つです。
①またもや欠席するグルート
GoGに続いて、チーム結成のキメ画にグルートがいない……。vol.3への引っ張りなのかもしれないけど、ちょっとガッカリ。
②ぶったぎり感の強い中盤
中盤、エゴの星とラヴェジャーズ船とで展開が別れます。それぞれが無類に面白くはあるのですが、盛り上がって一方へ、盛り上がって一方へという感じなのでテンションや話の流れが唐突に切れる感覚になってしまいました。
③ポップ過ぎる大殺戮シーン
ぶち上がるシーンだし楽しいけど、どうしても不謹慎な感じになってしまう。相手も大悪党だけど、大笑いしながらの虐殺をポップに見せるのは……そこまで気にするシリーズでもないけれど……うーむ。
◼終わりに
最後に細かいところでいうと…
・エゴの繁殖細胞が「ブロブ」そっくり
・ガモーラ滅茶苦茶力持ち
・皆かわいいものが大好き
・宇宙観が全体的にラチェット&クランク4っぽい
・ガモーラとネビュラの「あぁ〜疲れた…しんど…」って感じに歩くシーン最高
・3Dの方が情報整理されてて見易い!
・吹き替えは相変わらず最高
・産みの母と育ての父から音楽にのせて受け継がれるスピリット、という熱さ
・加藤浩次のクレジットの(極楽とんぼ)に泣く…
とにかく!今年最大級の王道エンタメ作品であることは疑う余地無しなので、何度でも劇場に行って観てみたい!サントラもヘビロテだ!!!!
自分の「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」についてのツイートをサルベージしてみた
こんにちは。光光太郎です。
遂に4月26日、MCUの節目として「アベンジャーズ エンドゲーム」が公開される。
私は初期から追い続けてきたわけではないしアメコミを読んでるわけでもないが、やはり今から動悸が収まらない位楽しみだ。
ってなわけで、今回はMCU、ひいては映画にどっぷりつかることになった切っ掛けの作品
についてのツイートをサルベージしてまとめてみたい。ずっと呟いてきたし、考えてきた作品ですよ…。
■感想ツイート
ウィンターソルジャーは「簡単に死ぬ状況」「どうやって勝つのか見当がつかない状況」「少数部隊対組織」に対して、現実味を持ったヒーロー映画として最高の面白さを魅せてくれた。観てる時は本当にドキドキが止まらず、どう勝つのか分からなかった。その中で挟まれるジョークにクスリと笑う。
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 13, 2014
ウィンターソルジャーで圧倒されたのは「個人対超巨大空中戦艦」のバトル。キャプテンが走り、ファルコンが飛び、大火力の戦艦に挑んでいくシーンはカタルシスの宝庫。燃えに燃えた。
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 13, 2014
ウィンターソルジャーのエンディングアニメ、ウルトラマン感があって滅茶苦茶好き。
— 光光太郎 (@bright_tarou) May 10, 2017
ウィンターソルジャー、自由を奪う体制との大きな戦いでもあり、親友を取り戻すための小さな戦いでもあるってのが、いいよね。
— 光光太郎 (@bright_tarou) March 7, 2018
ウィンターソルジャー、俺は社会的ななんとかは詳しくないけど、とにもかくにも少数vs圧倒的多数。小兵vs空中戦艦。このロマンと緊張感ですよ。これを越えるのはまだ観たことがない。
— 光光太郎 (@bright_tarou) April 10, 2018
ウィンターソルジャー、超人はあんまり出ないけど「これを防げなければ世界は終わる」という危機感はMCU随一。インフィニティウォーに並ぶ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) September 12, 2018
概念には概念でぶつかるしかない。歴史でありアメリカの精神を体現するキャップが語りかけることでしか、今回の事件は収束しなかっただろう。
— 光光太郎 (@bright_tarou) September 12, 2018
ウィンターソルジャー、緊張感みなぎるシーンの連続だけど登場人物達は決してユーモアを失わないってのが滅茶苦茶好きだ。アメリカンジョークもりもり。
— 光光太郎 (@bright_tarou) September 12, 2018
ウィンターソルジャーの「安全の為の服従か、自由の為の抵抗か」はずっと考えるし、勝手にふるえてろを観る前後で恋愛観は確実に変わった。
— 光光太郎 (@bright_tarou) February 27, 2019
キャプテン・アメリカじゃなくて、キャプテン・ロジャースって言うの熱いな。
— 光光太郎 (@bright_tarou) June 29, 2015
■私的ランキングに入りまくるウィンターソルジャー
#エンドクレジットが最高に好きな映画10作品
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 13, 2018
ウィンターソルジャー
アイアンマン3
インフィニティウォー
トレインミッション
シュガーラッシュ
ベイマックス
ロッキー・ザ・ファイナル
次元大介の墓標
パシフィック・リム
ランボー最後の戦場
#始まり方が最高に好きな映画10作品
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 13, 2018
カジノ・ロワイヤル
スカイフォール
ロシアより愛をこめて
死ぬのは奴らだ
夜明け告げるルーのうた
三大怪獣地球最大の決戦
サイコ
ウィンターソルジャー
シン・ゴジラ
グレイテストショーマン
#オールタイムベスト10最新版
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 8, 2018
①アメイジングスパイダーマン2
②スパイダーマン2
③ウィンターソルジャー
④君の名は。
⑤ロッキー
⑥運命のガイアメモリ
⑦シン・ゴジラ
⑧サバイバルファミリー
⑨素晴らしき哉、人生!
⑩ブタのヒヅメ
#観た映画が人間性に影響するらしいのであなた人生のベスト10を教えて
— 光光太郎 (@bright_tarou) April 18, 2017
スパイダーマン2
パシフィック・リム
キャプテン・アメリカ\ウィンターソルジャー
シン・ゴジラ
サバイバル・ファミリー
素晴らしき哉、人生!
回転
エスター
映画ハピネスチャージプリキュア
君の名は。
2014年のベスト10
— 光光太郎 (@bright_tarou) December 28, 2015
1.ガーディアンズ
2.ベイマックスhttps://t.co/QYNQv9NXCl大戦フルスロットル
4.イコライザー
5.ウィンターソルジャー
6.ロストエイジ
7.GODZILLA
8.紙の月
9.アメスパ2
10.劇場版ハピネスチャージプリキュア
今考えればウィンターソルジャーはガーディアンズ・オブ・ギャラクシーと同立1位。
映画:エイリアン 〜手助け無し!知恵と度胸で立ち向かえ!〜
こんにちは。光光太郎です。
「高橋ヨシキのシネマストリップ 戦慄のディストピア編」が発売されました。
観れてない映画が多いなぁと思いつつヨシキさんの名文を読んでいると、中学時代から親しんできたSF作品の項目が。
ということで、今回は「ジョーズ」の様に言葉の意味を変えてしまった映画、リドリー・スコット監督作
エイリアン
の感想を綴っていこうと思います。10年来の付き合いだぜ。
◼最近観た時のツイート
懐古野郎と言われても、やっぱりエイリアンとかプレデターとかロボコップが好きだ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月21日
エイリアン、恐ろしくミニマムな話だから好きなのよね。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月21日
エイリアン、毎回毎回「これは勝てない…」と思わせてくれるわ。
— 光光太郎 (@bright_tarou) 2019年4月21日
◼エイリアンとの出会い
モンスターや怪獣が好きだった子供時代。しかし中学生になると日本モノはしゃぶりつくし(ウルトラマンTVシリーズは全部観れてなかったけど、レンタルする金が無かったんで…)、次は洋モノだ!と、モンスターが出る洋画を観るように。
幸運なことに洋画好きな友達がいたので、DVDを借りてよく観ていました。最初「これで映画好きに目覚めた!」と手渡されたのは「エイリアン4」。いい友人を持ったものだ…。
その流れで出会ったのが「エイリアン」。エイリアンは雑誌や中古屋で見たことはありましたが、映画は未見。最初はエイリアンというモンスター目当てだった「エイリアン」ですが、マシンデザインに心を捕まれ、ノストロモ号船員達のグルーヴにアコガレを感じ……まぁのめり込んで観ていた記憶があります。誕生シーンで仰け反るわけですが。
「エイリアン、すげぇ面白かったよ!」「だろ?」で意気投合し、その後は「プレデター」やら「アナコンダ」やらを借りていきました。ガメラも好きだったかな?彼らがいなければ、今程映画に触れていなかったかもしれません。
◼エイリアンに出てくるエイリアン
「エイリアン」に関するアートワークは多数出ています。
なのでたいして詳しくない私がどうのこうの言うのは憚れるのですが、あの素晴らしい存在について色々書いてみたいわけです。
1作目に登場するエイリアン・モンスターについて、さらりと紹介。
①フェイスハガー
エイリアンは形体変化を重ねて「完璧な殺戮生物」へとなっていくモンスターです。しわしわの皮膚に包まれたような「卵」から産まれるのは「フェイスハガー」と呼ばれる虫と海老の悪魔合体みたいなモンスター。ビラ星人みたいなやつです。
敏捷な動きと跳躍力、締め付けパワーによって他生命体にしがみつき、種を産み付けます。1作目では動いている姿はあまり映りませんが「エイリアン2」「エイリアンVSプレデター」では八面六臂の活躍。超スピードで動く節足と言うと、地方在住の方ならすぐ思い浮かぶ奴がいるでしょう…フェイスハガーは革新的なデザインであると共に、その恐怖性は案外身近な所から連想できるもの。だからこそ、恐いしキモイ。
②チェストバスター
産み付けた後は死亡するだけというのも潔いですよね。そして、産み付け先の生物の胸を突き破り誕生するのが「チェストバスター」。
こいつはどの作品でも一瞬しか映りませんが「胸を突き破るシーン」が印象的すぎて、エイリアンシリーズを象徴する存在になっていると思います。また、チェストバスターは寄生先生物の特徴が遺伝するらしく「エイリアンVSプレデター2」ではプレデターに寄生したチェストバスターが最終的にプレデリアンへと進化します。
③ビッグチャップ
卵→フェイスハガー→チェストバスターと来て、最終進化形態が一般的に知られるエイリアンの姿です。1作目では「ビッグチャップ」という名前が付いており、後続の個体に比べると頭部がヘルメット調だったり頭部が白っぽかったり頭部がもろに男性器だったりするのが特徴。
フェイスハガー、チェストバスターが割と大写しでスクリーンに出るのに対して、ビッグチャップは全身が殆ど映りません。大柄な体格に対してどこにでも潜り込むことができ、決して集団の中に突撃していくことはなく、一人また一人と船員達を葬り去っていく…正にホラー・モンスター。またメカニカルな外観のため、宇宙船内部の様々な場所にカモフラージュし潜むことが出来るのです。
■エイリアンの機能美
今作の中ではエイリアンが結局なんであるのかは明言されません。殺戮に特化した完全生命体である、とだけ、劇中の人物が語るだけです。殺すための機能が詰め込まれた無駄のない「美しい」生物を、観客が船員と同じ視点で目撃していくことに今作の面白さがあります。
まず、各形体の血液は全て強い酸であり、人間の皮膚はもとより宇宙船内装等も簡単に溶解します。殺されようが必ず相手を道連れにするか、被害を拡大させるわけです。事実、ノストロモ号はフェイスハガーの血によって船体に穴が空き、真空状態になりかけました。つまり「殺せない」ので、フェイスハガーは「チェストバスターを産み付ける」か「酸で被害をもたらすか」のどちらかを確実に実行できます。また、フェイスハガーの身体は全て「しがみついて種を産み付ける」為にあり、それ以外を行う箇所は一切ありません。食事も排泄も感情も何もなく、目的を果たす為だけの最低限最大限の機能しかない。
チェストバスターは言わずもがな、チェストをバスターするための存在。逃げる為の足もなく、突き破ることのみに特化しています。
そしてビッグチャップ。第二の口は人間の頭蓋骨をたやすく突き破り、その尾は人体を貫く。音もなく忍び寄り、恐らく真空中でも生存できる…あの限界状況では、どうあっても倒せそうにない。成体のデザインはそこまで機能特化というわけではないが、アンバランスな頭身体、感情の読めない顔、真っ黒なカラーリングと、見る者に恐怖を抱かせる要素ばかり。「殺人を戯画化したモンスター」それがエイリアンだ。
■与える恐怖が変化するモンスター、エイリアン
続いて、エイリアンがもたらす演出効果について触れていきたい。今回は映画の感想じゃなくてエイリアンそのものについての話が多いな!
何度も述べてきた通り、エイリアンは卵→フェイスハガー→チェストバスター→成体と形態変化していく。それに伴って、恐怖演出も変化していく。だが通底しているのは「何をされるか分からない」ことだろう。
まず卵だが、これはもう見た目が怖すぎる。そしてそこから飛び出してくるフェイスハガー!未知のものを発見しておっかなびっくり近づく→いきなりキモイ奴が飛び出すと。ここまでかなりじっくりとSFを描いているので、モンスター的ビックリ恐怖よりも「何か不可解なことが起ころうとしている」怖さがある。
続いてフェイスハガー。2では襲われる恐怖が強調されているが、1ではしがみついてからが本番。何のために引っ付いているか分からないし、何故人間が生かされているかも不明。科学的生物的考察が行われていくが殆ど有効でなく、緊張感が続いていく…SFサスペンスだ。まぁキモイ生物が顔面に引っ付いてるのを観るだけでも十分怖いけど。
トリは成体、ビッグチャップ。前述した通り、どこに潜んでるか、どこから襲ってくるか分からないという恐怖を与えてくる。しかもどうすれば殺せるかもわからない。打つ手がほぼ無い状態で戦わなければならないという焦り。だからこそ、限られた資材と空間を活かして知恵を振り絞って立ち向かっていくリプリー達がカッコよく見えるのだ。
この様に、エイリアンが進化していくのは映画を面白く怖くするために必要なことであり、全く無駄ではないのだ。ハッタリだけじゃない!!
■〆
長いなぁ…そろそろ〆だよ。
SF感の素晴らしさ、一切手を抜かないサスペンス演出、ギスギスした船員たちのドラマ、リプリーの逞しさ、アンドロイドのグロさ等見どころがかなりある映画だが、何よりもやはりエイリアンというモンスターを推したい!2のバンバン登場してドンドン殺されるエイリアンも好きだけど、1体のみで宇宙船を壊滅に追いやり秘密が全く明かされない神秘的な存在として描いた1作目も大好きだ。ポップアイコンになりすぎた感もあるが、是非舐めずに一度見てもらいたい。リプリーが超絶カッコいい吹替もおススメ!もうすぐHuluで配信されるしね!!
映画:君の名は。 ~意志さえあれば~
こんにちは。光光太郎です。
先日、新海誠監督最新作「天気の子」の予告が公開されました。
新海誠…私の映画への向き合い方を一変させた名前です。
ってなわけで今回は前ブログからの引越し記事「君の名は。」の感想だ!!!!!
とんでもなく長いので、注意してください。
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ワクワクもんですね。
光光太郎(@bright_tarou)です。
今回はV9を達成したMADなアニメーション映画
のネタバレ感想を書いていきたいと思います。大分たっちゃいましたが、自分自身の気持ちを書き綴っていきますよ! 最初はグダグダ文句を言っていますが、後で盛大に手のひらを返します。
■あらすじと概要
「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」など、男女の心の機微を美しい風景描写とともに繊細に描き出すアニメーション作品を手がけ、国内外から注目を集める新海誠監督が、前作「言の葉の庭」から3年ぶりに送り出すオリジナル長編アニメ。「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」などの作品で知られ、新海監督とはCMでタッグを組んだこともある田中将賀がキャラクターデザインを手がけ、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などスタジオジブリ作品に数多く携わってきた安藤雅司が作画監督。主題歌を含む音楽を、人気ロックバンドの「RADWIMPS」が担当した。1000年ぶりという彗星の接近が1カ月後に迫ったある日、山深い田舎町に暮らす女子高生の宮水三葉は、自分が東京の男子高校生になった夢を見る。日頃から田舎の小さな町に窮屈し、都会に憧れを抱いていた三葉は、夢の中で都会を満喫する。一方、東京で暮らす男子高校生の立花瀧も、行ったこともない山奥の町で自分が女子高生になっている夢を見ていた。心と身体が入れ替わる現象が続き、互いの存在を知った瀧と三葉だったが、やがて彼らは意外な真実を知ることになる。声の出演は瀧役に神木隆之介、三葉役に上白石萌音。その他、長澤まさみ、市原悦子らが出演。(映画.comより引用)
■最初にどう見たか
私は新海誠の作品群を全く観たことがありません。以前友人たちが新海誠作品について「ストーリーはあって無しが如し。世界観が全て」と評していたこともあって、あまり興味を持っていませんでした。(しかし、ロボットアニメ好きとして「ほしのこえ」を知らなかったのは迂闊…)
それにも関わらず「君の名は。」を観たのは、何度も何度も劇場で流れていた予告に惹きつけられたからでした。あの予告は非常に良くできていましたねぇ…透明感と疾走感溢れるRADWIMPSの曲に合わせて美麗な風景とキャラクターがポンポン出てくるため、瑞々しい青春アニメ映画の雰囲気があります。また、超現実的な山頂や彗星が映ることで世界観やフィクションの幅が拡がるため、シンプルな青春映画でないことを予感させますね。
そしてシンプルながら思考にフックをかける「君の名は。」というタイトル。「。」が入っていることも気になりますが、何よりも「君の名は」という言葉ですよ。ただ名前を問うているだけなのに「君」と「名」とに神秘的な響きがありますし、尻上がりの発音になる「名は」には開放感を感じます。決して言いやすい言葉ではないですが、どうにも惹かれてしまいます。そして、神秘性と開放感というのは予告の雰囲気とも合致しているんですよね。
物凄いこじつけ感がありますが(笑)、こういった要素に惹かれて8月に鑑賞してみたんです。こっぱずかしくて幸せの波動に呑まれる恋愛映画、コロコロ表情が変わりダイナミックなアクションがあるであろうアニメーション映画、分かりやすいジャンル映画だと思って席に着いたのですが、これらを全て裏切ってくれました。キャラクターへの同調を誘い物語へ没入させてくれる映画だと思いきや、異なっていたんですねぇ…。
確かに神秘性と開放感、瑞々しさなどの予告で感じた雰囲気はありましたが、期待していたジャンル的要素を感じることは出来ず、初鑑賞時はいったいこれは何を描いた映画なのかが全く分からなかったんですよ。面白いとも思えませんでした。自分が嫌いなはずの要素や歪んだ構成が色々見えてきたんですが、全く嫌な気持ちになることはありませんでした。考えども、嫌さや面白さよりも「何故?」が浮かんでくるので、この気持ちにケリをつけるためパンフレットを買い、楽曲を購入しました。しかし納得いく解答は見つけられず…。
ここから、「君の名は。」について考え続ける日々が始まりました。
分からない…分からない。
— 光光太郎 (@bright_tarou) August 28, 2016
物語展開や状況には痺れても、それをキャラクターが動かしていない。物語にキャラクターが動かされている。魅力的なキャラクターはいない。
そもそも、これは映画なのか?俺は長めのミュージックビデオか紙芝居を見ていたんじゃないのか?
なのに、怒りはあまりない。
「君の名は。」を振り返ってみると、
— 光光太郎 (@bright_tarou) August 29, 2016
ワンシーン毎には面白いお話を
カテゴライズされたキャラクター達に
事務的に進めさせ
美麗な情景と音楽と語りで
なんだか良いことのように思わせる
作品だったと解釈できた。
■2カ月考えた
ひとまず、自分に合わないと感じたところをまとめることから始め、通勤中通学中も「前前前世」を聴きながら考えた結果、次の3点になりました。
①RADWIMPSのミュージックビデオに見える
②事務的に静的に展開する紙芝居のよう
③青春と災害による物語の剥離
①RADWIMPSのミュージックビデオに見える
オープニングアニメに「夢灯篭」、入れ替わり生活で流れる「前前前世」、彗星接近時には「スパークル」、そして最後には「なんでもないや」と、107分の中でRADWIMPS の曲が4つもガッツリ流れるんですね。歌唱曲を劇中に流す演出は珍しくないですが、ここまで目立つようにやられると台詞や物語の進行に集中できないため、映画への没入が阻害されてしまいます。また「夢灯篭」と「前前前世」とが流れるシーンは映像に音楽をのせるのではなく音楽に映像をのせたかのように見えるため、映画というよりもミュージックビデオを見ているような感覚になるんですよ。この2つが序盤に来てしまうため、映画を観る意欲が結構削がれてしまいました…。
RADWIMPS - Dream Lantern (Ost. Kimi No Nawa) LIVE
②事務的に静的に展開する紙芝居のよう
事務的な展開というのは、物語がそう進むための根拠となる描写に観客の意識が乗らない状態でお話が進んでいくことです。「君の名は。」では主役である三葉と瀧以外のキャラクターが話す内容はテンプレの塊で新鮮味が無いんですよ…。全員がそうではないですが、特に不良3人組は最悪。これもまた序盤の序盤にぶち込まれるので「またこのパターンか…」とゲンナリでした。
異様にテンポが良いことも事務的な展開に拍車をかけていたように思えます。ある場面を見せたいがためにキャラクターを動かし風景や視点を変えポンポンと話を展開していくため、こちらが物語に没入する前に気持ちを遮断される様でした。 序盤における各視点の尺バランスも悪く、瀧よりも三葉の方がガッツリ描かれているんですよ。にも関わらず中盤以降は長らく瀧視点が続くので、どうにもこうにもキャラクターへ同調することが出来ませんでした。
何かしらを燃料にして人物や展開が「動いていく」ことによって場面を繋げることを動的な展開だとすると、それの反対が静的な展開です。動的な展開は、観客を物語や登場人物に引き込むため必要不可欠な要素でしょう。私はこれを映像と精神との面両で考えることが出来ると思い、「君の名は。」に何故静的な展開を感じてしまうのかを確認するため、こういう表を作ってみました。記憶のみに頼っているので不確かですが…。
こう振り返ってみると、入れ替わりが途絶えて以降は精神面が動的になりますし、映像精神の両面が動的な状態で視点の切り替えや物語の転換が起こります。しかし、序盤に静的な状態が長く続くので「このお話、全然動かないなぁ…」という印象を持ってしまったのでしょう。物語を強烈に引っ張る燃料として定番な「主人公が追い込まれる」状況ではないことも、静的に感じてしまう、物語に没入できない原因だと思います。入れ替わりが途絶えた後、そして糸守の真実が明らかになってからは打って変わってドンドン追い込まれていくため、その加速感には堪らないものがありましたが。
三葉の父親との関係や不良組からの嫌味、田舎コンプレックスは、入れ替わり時における彼女の精神面燃料ではありますが、物語を動的にする燃料である「追い込み」ではないですよね。あれは彼女にとって日常なわけですし。瀧に至っては、中盤になるまで燃料になるのが「入れ替わり状態のドタバタ」位ですから、瀧に関する興味があんまり湧かないんですよね…。
③青春と災害による物語の剥離
これが、鑑賞後に私の中で「何故?」が巻き起こった一番の原因だと思います。 中盤までは高校生男女の入れ替わり生活といういかにもな青春物語でしたが、三葉が住む糸守町の真実と入れ替わりのズレとが明らかになる中盤以降は、彗星災害を止めるための物語に変化していきます。ここでは「消失した町」「彗星激突の瞬間」「災害を伝える新聞やニュース記事の数々」「被害者名簿」といった、痛烈な死のイメージを間接的に叩きつける描写が次々となされる為、前半に溢れていた瑞々しさが一気に消失するんですね。
こういった雰囲気の転換、もっと言えばジャンルの転換というのは結構使われる手段ですが、直近に東日本大震災や熊本地震等の被害を受けた今の日本にとって、この災害描写は物語を根本から覆してしまう程の圧倒的力を持っています。軽く触れただけでも難物になってしまうにも関わらずここまではっきりと描いているということは、直近の震災における何か、震災以降の何かを伝えるためなのでしょう。 しかし、ならば何故最初からそういう物語にしなかったのか?災害をテーマにしたアニメ映画を作り、そこで一本筋の通った物語を描けばよいのではないか?何故二人の男女の物語に災害を組み込む必要性があったのか?しかも、彗星被害を「無かったことにする」という物語にしてまで…。
鑑賞直後は青春恋愛映画として描きたいことと災害映画として描きたいこととがバラバラで、無理矢理くっ付けている様に思えてしまいました。前者を隠れ蓑にして後者を描くことが目的だったのではないか…そこまで考えてしまいました。
震災以降映画といえばこれ
この①、②、③を考えてみて共通したのは「この作品はいったい何を軸にしているんだろう?」という疑問。シンプルに「こういう映画!」とすることが出来なかったんですね。 演出や物語が矛盾に溢れてぐらついていたとしても、一本明確な軸が通っていれば「こういう作品である」と落としどころを付けることが出来ます。しかし「君の名は。」は考えどもを見つけることが出来ませんでした。
主人公達が動きつづける必然性すら見いだせない毎日が続きましたが、サイクリング中にある気づきがありました。
「もしかしてこれは、意図的に矛盾や散漫さを作っているんじゃないか?」
「登場人物達の姿勢と、監督の描きたかったことがリンクしているんじゃないか?」
当たり前と言えば当たり前の事ですが、ここに至って物語が腑に落ちたんです。それを確かめる為に2回目3回目の鑑賞を行ったところ、着眼点は間違っていなかったことを確信しました。合わない箇所が裏返り、そのまま魅力になっていたんですね。
色々知った上で観ると、この作品がいかに計算されて作られているかがよく分かる。その上であえて様々な矛盾を残し、一般的な物語の作り方をしていないことの意味を再確認出来た。
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 12, 2016
…………でも、子供のアルバムを見返すような心持ちで観てたかな。
「君の名は。」3回目行ってきた。
— 光光太郎 (@bright_tarou) October 21, 2016
流石に飽きが来るかなぁと思ったけど全くそんな事はなく、新しい発見も多かった。というか、何回見ても「考えながら見る」ことが出来るんじゃないかな?改めてすごい作品だと分かった。
■感想
「君の名は。」は、意志の物語であったと思います。とびきりシンプルで、小さくて、強い意志です。 ここで、パンフレットに載っていた、作画監督の安藤雅司さんによる文章を引用します。
『君の名は。』は、新海さんが持っているマイナーな部分とメジャーな部分、作品的に点描で見せる散文性の部分と時系列で見せる物語性の部分を絶妙に繋いだものになっていて、なおかつ幅広い層が楽しめるお話になっている。
私が行きついた結論もこれに近いものでした。
散文性のある表現とそれによって生まれる矛盾の中で、少しずつ結ばれて一本の軸となっていく意志…すぐに解けてしまいそうな意志だけを持って進んでいく様は、人生の足掻きのようです。多くの偶然とほんの少しの宿命、そして人間の持つ意志によって、正しく運命的としか表現しえない出来事を結んでいく…極めて人間的な物語に、素直な感動を抱きました。 この感動を物語に対して感じるだけでなく、今作をこういう形に作り上げたという事実そのものに対しても感じてしまうところに、「君の名は。」の持つ豊かさがあるのかもしれません。
話がかなり抽象的なものになってきてしまったので、ここからは先ほど挙げた「合わない点」がどう裏返り「魅力」になったのかを出来るだけ具体的に書いていきたいと思います。
①RADWIMPSのミュージックビデオに見える←→曲で物語や心情を表現していた
当たり前っちゃ当たり前なんですけどね(笑)。
初見時は訳が分からないまま観てあっという間に時間が過ぎていった楽曲シーンですが、何回も聴き込んで歌詞を理解した上で挑んだ2回目以降では印象が全く異なりました。歌詞と曲調と物語とをクロスさせ、スマートかつ豊かな表現が行われていたシーンだったんですね。また、4曲全てが意志の純粋さを謳っているため、「君の名は。」という作品を統括して表現している場面とも言えます。
例えばオープニング映像と共に流れる「夢灯篭」。自分ですら自分の気持ちを信じ切れなくなっていることと、どんな障害があっても誰かを求める思いとが、「世界のはしっこ」「虹の出発点 終点」「5次元」等の夢を信じる若々しさと空想を語る青臭さとを感じさせる歌詞の中に並行して込められており、疾走感と透明感をイメージさせる曲調に乗せて歌われることで、「君の名は。」の物語内容や雰囲気を表現していたんですね。 言わば作品のすべてが抽象化されているようなシーンになっていたので、2回目の鑑賞ではこのオープニングシーンだけで思わず泣いてしまいました…。何よりも「君の名を 今追いかけるよ」で終わるというところですね。それだけの物語、それだけの言葉なのに、その純粋さと力強さに涙してしまうんですよ…。
「前前前世」は、瀧と三葉とが入れ替わり生活に気付くところから流れ出し、アップテンポな曲調が映像と物語とを一気に動的なものへ変えていきます。初鑑賞時はこのテンポによってキャラクターへの同調と物語への没入を阻害されてしまい、以降の話に関心を向けることが困難になりましたが、実はこのテンポこそが観客を一気に惹きつける工夫だったんですね。
前前前世が入る前と流れる中との違いに、初鑑賞時は対応できなかったのでしょう。ここまででも大分「何故?」が続いていましたからね(笑)。 実はこのシーンでは、曲が流れている段階での物語内容と歌詞とがあまりリンクしていないんですね。
思い焦がれる気持ちやその相手と会えたことの喜び等が夢灯篭と同じく若々しくも青臭い歌詞で歌われているのですが、瀧と三葉はまだそこまで思いが募っていませんし、強い気持ちも抱いていなかったでしょう。 しかし、前前前世で紡がれる音と声とが放つ青春の輝きは、これから彼ら自身が結んでいく運命の始まりを告げるのには最適です。 物語が動き始めること。それを理屈ではなく視覚と聴覚という感覚で掴ませるシーンだったんですね。
3曲目の「スパークル」は、瀧との邂逅を終えた三葉が彗星衝突の危機から町を守ろうと奔走しだすところから流れます。この曲は前の2つとは異なり、疾走感ではなく切なさを秘めた、静かで力強い曲調と歌詞になっています。そしてそれが劇中と見事にクロスするんですねぇ…。
歌いだしの「まだこの世界は 僕を飼いならしてたいみたいだ 望み通りいいだろう 美しくもがくよ」という歌詞が、彗星衝突という定められた事実に抗う瀧と三葉そのままですよね。 スパークルが流れる間はこの様に、歌詞が歌われるタイミングと劇中の事態とが絶妙にシンクロする場面が多いです。「遂に時はきた」では確か爆発が起きるか何か明確に事態が動き出す場面ですし、「愛し方さえも」では「好きだ。」の文字を三葉が見る場面でした。こういう、音と展開が瞬間的にシンクロするのが大好きなんですよね、私(笑)。
また、切なげなスパークルが流れることによって起こっている事態の深刻さやシリアスさよりも三葉の心情に意識が向けられるため、雰囲気がサスペンスドラマに行き過ぎなくなり、作品の軸が曲がらないようになっていました。
「なんでもないや」は、成長した瀧と三葉の邂逅、そしてエンドクレジットで流れます。ここで流れるのは映画用に歌詞が追加されたものであり、その歌詞がスパークル以上に劇中とシンクロするものになっているんですよねぇ…。「離したりしないよ 二度と離しはしないよ やっとこの手が 君に追いついたんだよ」「嬉しくて泣くのは 悲しくて笑うのは 君の心が 君を追い越したんだよ」……ううう(泣)。
追加歌詞以外でも、ぽつりぽつりと歌われる歌詞の一つ一つが、瀧と三葉のこれまでと今、そしてこれからを表現しているようです。それらが紡がれたところで「僕らタイムフライヤー 時を駆け上がるクライマー 時のかくれんぼ はぐれっこはもういやなんだ」と、力強く歌われるんですよ…。
「忘れたくない」という意志だけを持って頑張り、それすらも時と運命の中でかき消された後に「何かを探していた」という気持ちを持ち続けていた二人が、やっと出会えた…その心情を表現した素晴らしい歌詞じゃないですか…。
楽曲は物語と合致し、作品世界やその豊かさの一部となっていたんですね。(曲をしっかり知っていないと意味がよく分からないという問題はありますが…) だからこそ楽曲が流れ出すシーンは物語上の要所であり、そこで描こうとしていることを聴覚にも訴えていたんです。一曲一曲が「君の名は。」の物語を内包しているんですよね。
そして、若々しく青臭い、だからこそ純粋な言葉によって結ばれていく意志の歌でもあるため、聴くたびに自分の人生を思い起こしてしまう…。 正に「映画音楽」と言うに相応しい名曲ばかり…4つの歌だけでなく劇中の楽曲全てを手掛けたRADWIMPSは本当に素晴らしい仕事をしてくれました…ありがとう!!
②事務的に静的に展開する紙芝居のよう←→意志だけで紡がれた物語
今作は、とにかく観客の同調や没入を遮る要素が多かった様に思えます。というか、物語然としていないんですよね。
・主人公らしからぬキャラの薄さ
→要素の多い三葉はともかくとして、瀧は全くの一般人な上に身の上が語られない。 二人ともアニメキャラらしい突き抜けた部分が無い。中盤まで追い込まれない。
・物語進行における必然性の無さ
→「何かがある気がする」という理由のみでポンポンと話が進み、無償の協力を得られる。
・異様に良いテンポ
→観客が話を飲み込む前に展開が進んでいく。抽象的な台詞や独り言をきっかけに進むことが多いのも一因か。
・動きが無さすぎる序盤
→前前前世が流れる前までは映像面でもキャラクターの精神面でも物語を引っ張るほどの動きは無い。
しかし、こういった要素の数々は、敢えて置かれているのではないでしょうか? これらの要素の積み重なりによって、劇中の登場人物にも、観客にも、三葉や瀧にすら「そこまでする理由は無いのでは?」「何故そんなことをするのか?」と思わせます。物語の構造や演出からも、そう言われているようです。 それでも、瀧や三葉は「忘れたくない」という気持ちだけを持って、その一心で進み続けます。何の根拠もなく、ただ何かが引っかかる…その意志による行動だけで、静的な物語をドンドン動的なものへと変えていきます。
よくよく考えればこれって、私たちが生きているこの現実世界と同じだと思うんですよ。 他人からも仲間からも信じられず、社会や運命からすらそれを否定されていると思ってしまうことは、必ずあるはずです。そんな時は、自分ですら信じられないかすかな意志を手繰り寄せながら、少しずつ進んでいくしかない…。だからこそ、人間が抱く意志と、それによって結ばれていく「物語」に、私たちは感動するんだと思うんですよ。
その意志が結実するのが、誰からも望まれない中で動きつづけた瀧と三葉が、遂に邂逅するシーン。そして、5年と8年という時間の後に、忘れないという意志すら消えかけたその時に、思い出した「引っかかる気持ち」だけを頼りにして、もう一度、そして決定的に出会うシーンです。
人の意志の力、そして心の中に残る気持ちの力。多くの困難と偶然、ほんの少しの宿命を経てつかみ取った運命には、感動するしかないじゃないですか…。
「君の名は。」は意志と気持ちとを頼りに物語を結んでいった、とても人間臭い、熱い熱い熱い物語だったんですよ!
③青春と災害による物語の剥離←→感じた気持ちを忘れなければ、何かになる
「君の名は。」は前半に青春物語が展開し、後半はそこにシリアスな災害物語が加わり、最終的には出会いの物語として着地します。初見時は災害物語の容赦のなさに青春物語との剥離を感じてしまい、今作がいったい何をしたいのか全く分からなくなってしまいました。
しかし、前述したように、これもまた私たちの人生と同じだと思うんですよ。世の中で起こることには剥離が付き物ですし、その中で起こっていることが一体何なのかなんて、明確な答えは誰も出せません。
そんな中で意志を貫き生きていく瀧と三葉の姿は、人生に立ち向かう姿そのもの。綺麗ごとですが、その剥離に抗い続けるということは、誰にでも出来ることではありません。フィクションの様にも思えてしまいますが、それを現実だと信じたい、現実にしたいと思いませんか?
そしてそこに、新海誠監督や作り手たちが、震災の記憶が強く残る今に災害を扱い、この作品に乗せたメッセージがあると思うんです。これを最も強く感じるのは、二回ある瀧と三葉の出会いシーンです
終盤、瀧と三葉は能動的に行動したことによって一回目の出会いを果たします。そこには「忘れたくない」「会いたい」という、強くてシンプルな願いがありました。その結果、瀧と三葉は彗星衝突による災害を回避させることに成功し、死傷者を0人にすることが出来ました。
対して二回目の出会いに関しては、彼らは強い意志を抱きつづけていたわけではありません。むしろ時間によってその意志は殆どかき消されていました。しかし、詳細な記憶や意志が無くても、彼らには「何かを探しているかもしれない」という酷く曖昧な、不確かな気持ちだけが残っていました。いや、残し続けていたんです。その気持ちを捨てることなく持ち続けた結果、お互いを一目見るというきっかけによって、一気に強い意志へと変貌しました。そして、決定的な再開を果たす…。
忘れないことを貫けば、たった一人でも貫けば、何か大きな力になる。例えそれが一人の脳内の中であっても、創作の中であっても、まやかしの希望であっても、暗い事実を明るい希望に変えることが出来るんだということを、一回目の出会いで描いていると思うんです。
そして、強い意志や詳細な記憶、明確な思い出が無くとも、その時に感じた気持ち、何かが引っかかるという気持ちを持ち続けるだけでも、何かは起こすことが出来ると。それが誰かとの出会いなのか、過去の記憶を呼び起こすことなのかはわからないが、感じた気持ちを捨てる必要は無いんだと。二回目の出会いに込められたメッセージは本当にささやかですが、人間の心を信じる作り手達の思いが伝わってきます。
■超超個人的な感想
面白かったところ
②写実的な背景
③方言
本業俳優の方が声優をやるとどうしても俳優時の印象を声から感じ取ってしまいますが、この三者は全くそんなことはありませんでした!上白石萌音は「ちはやふる」で大好きになりましたが、自然に聞いていると彼女の声だと分からないほど三葉と瀧になり切っていましたし、神木隆之介はもう円熟の粋ですね。瀧in三葉のところは「男の声なのに女」という状態をイライラさせることなく演じていたと思います。そして特筆すべきは長澤まさみ。全く気づきませんでしたよ…。凄いとしか言えません…。
②写実的な背景
予告の時から素晴らしいと思っていましたが、実際観てみるとそのリアルさは小手先ではなく、観客側に「これは現実の世界かもしれない」と思わせ、アニメの世界だからと思考停止させないことにも繋がっていました。でも、口噛み酒がリアルな描画なのかどうかは分かりません!!!!
③方言
多言語混在描写大好きマンとして、糸守町に長年住んでいるキャラクター達の話す方言には堪らないものがありました。特段言語が異なっているわけではないのですが、イントネーションが明確に異なっているんですよ。これを自然に感じさせる演技は非常に難しいと思うのですが、バッチリハマってましたね。
釈然としなかったところ
①絵が上手い瀧
②アウトドアグッズを当たり前の様に持っている東京人
③たった一人で登山に向かう瀧
①絵が上手い瀧
主人公でイケメンで声が神木隆之介な上に絵が上手い…釈然としない!なんでも出来るのか!(努力があったんでしょうけどね…)
②アウトドアグッズを当たり前の様に持っている東京人
結構高いのになんでそんなに万全なのか…奥寺先輩と瀧よ…。瀧は山とかに興味あるようだったし、アウトドアが趣味なのかな?
③たった一人で登山に向かう瀧
危ないからやめましょう。
■総括
物語に酔う映画ではなくまるで現実の人生の様に分散された事実を咀嚼し、自らの手で物語に意味を見出していく…。そして、自分の人生を顧みる…。映画の上映時間だけで終わらない、考えぬくことまでを含めた「映画体験」を味わうことが出来ました。そして、これを観てから物語や映画の見方考え方が確実に変わりましたね。これは今静的なのか動的なのか、どう観客を惹きつけているのか…そんな事ばかり考えながら見るようになりました(笑)。
また、兎にも角にも綺麗な物語でした。明確な悪役はいませんし、災害の場面も人死にの決定的瞬間は見せず、瀧と三葉が長々とクヨクヨする場面もありません。ガツンとしんみり「させられる」時間がなく、楽曲に乗せた物語運びとテンポのいい編集によって時間経過も早めに感じるので、軽い心持で楽しく観ることができ、作品の純粋さ綺麗さに浸ることが出来るんですよね。恐らくこれが、リピーター含めた超絶大ヒットの要因でもあるでしょう。
何度でも観たくなる。そして、何度でも考えたくなり、誰かと語り合いたくなる。こういう映画がヒットしているのは本当に嬉しいですよ…。12月いっぱいまで上映するらしいので、観た人も未見の人も、是非劇場に行ってみて下さい! (ただ、少しはシンゴジラとかスタートレックビヨンドも観てくれ……!!!)