光光太郎の趣味部屋

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特撮:ウルトラマンティガ25話のはなし

2021年7月10日、ウルトラマンの日にウルトラマントリガーがスタートした。ウルトラマンティガとの関連性を強く押し出した新作である。1話を観た限りでは正直不安だが、今後に期待したい。


ティガは自分にとって思い出深い作品であるため、何故面白いのか、何故こんなにも人気なのか、時々考えてしまう。TVシリーズを全て見返すのは中々しんどいので、子供の頃からティガに触れたい時はティガ&ダイナの映画を観ていた。破壊の光を放つ戦艦とそれを操る宇宙生命体に対して、心の光を集めて戦うウルトラマンと人間たち。ティガは光そのものである、という概念はティガが客演する度に強調されているが、実はTVシリーズ初期から言われていることではない。いや光というワードは出ていたはずだが、それは誰にでも宿っているものではなく、特別な存在が持つ唯一無二の力的な意味合いだったように思う。


ではいつから「光」が力ではなく心や希望を表す言葉、ひいてはウルトラマンと人間との繋がりの象徴になっていったのか?恐らくTVシリーズ25話、キリエロイドⅡ回からだ。ティガとキリエル人の違いはなんなのかがハッキリし、ティガがこれまでのウルトラマンとどう違うのかが示され始める回でもある。


3話、キリエロイドとの初戦では、ティガとキリエル人のどちらが人類の導き手という話だった。GUTSの隊長イルマの台詞からもティガに全能の存在を求めていることが分かる。では、全能であり美しく、そして人類に対して好意的に見える存在からの支配をただ受け入れていいのか?というのが25話だ。

25話の少し前、初めての連続エピソードであるゴブニュ回からティガの描かれ方が変わった。ティガは負ける、ティガだけでは勝てないんだと。宇宙が作り出した文明淘汰システムのようにも見える機械島には、ティガと人類が協力しないと絶対に勝てなかった。以降ティガを助ける人類という構図が強くなる。



そして25話。3話と異なり、ティガが悪でありキリエル人が正義であると思い込む人間達が現れる。イルマが人類もティガも勝てないだろうと弱気になると、ティガに唯一変身出来るとされるダイゴは「人間が信じなければティガは光になって戦えない」と返す。この場面こそが、これまでのウルトラマンと似つつも決定的に異なるティガの特色だ。キリエロイドⅡとの戦いで完封され打ちのめされたティガへ光を届けるようにイルマは人々へ呼び掛け、集まった人々は車や懐中電灯などの光をティガへ向ける。(中学生の頃の自分は「物理的な光でいいの!?」と驚愕したが、社会人になったら号泣してたね)光を受け取ったティガは回復し、再びキリエロイドⅡへ立ち向かっていく…。

ウルトラマンにエネルギーを与える人類という展開はウルトラセブンの頃から続いているものの、ティガは光を軸にウルトラマンと人類の関係を非常に深く、そして普遍的なものに変えた。光というワード、モチーフがこれ以降のウルトラマンにどれだけ大きな影響を与えているかはここで敢えて語る必要もないだろう。(ガイア、コスモス、ネクサス、メビウス、ゼロ等)つまりティガ25話は、ウルトラマンの歴史を変えたエピソードとも言える。俺は言いたいね。



ウルトラマンティガは絶対的なヒーロー、キャラクターとしてのヒーローではなく、誰もが心に抱ける象徴としてのヒーローだったんだ。
前述した通りティガは最初人類を越える圧倒的な存在、導く神として認識されるしそういう風に描かれるんだが、中盤以降にティガと同等かそれ以上の力を持って人を支配しようとする奴等がドンドン出てくる。ティガだけに頼っていいのか?強いものにすがるだけでいいのか?って話に変わっていく。そしてティガが苦戦したり人の心の光こそがティガであると示されることで、ウルトラマンの絶対性も揺らいでくる。

ダイゴだからこそティガになれたと始まり、ティガと共闘する人類、ティガへ光を与える人類となり、遂には人類がティガになる。テレビ版最終話では確か子供だけだったが、ティガ&ダイナでは大人でも誰でも光になれた。絶対性を廃していき、最終的には誰もがウルトラマンと繋がっているんだと、ティガのヒーロー性は変遷していった。



象徴のヒーローは思い出に残り続けるヒーローでもある。何度も見返したわけではないのにずっと印象深かったのは、これが理由かもしれない。ウルトラマントリガーも、コロナに翻弄される子供たちに希望を届けられるヒーロー、ヒーロー番組になることを切に願う。